子供【2人目の壁】最後に頼るべきは「電卓」より「心」

こんにちは、森翔吾です。

先日、

ABEMAのYouTubeチャンネル
で配信されていた、

『2人目の壁、お金・時間・体力…
望まない理由は?ひとりっ子じゃダメ?』

という特集動画を見ました。

内容はすごく
「今っぽい」テーマで
そして同時にかなり、

「日本的な閉塞感」

が濃縮されたような内容でした。

登場していたのは
都内在住で、

世帯年収1000万円以上の
ご家庭のママさん。

数字だけ見れば
「十分恵まれている層」
ですよね。

でも彼女は、

「2人目は考えられない」

と、はっきり語っていました。

その理由は、

「つわりのトラウマが消えない」

「自分の時間を大切にしたい」

「稼いだお金を、自分のファッションや推し活に使いたい」

といった、

いわゆる“お金がないから無理”
というよりも、

ライフスタイルや
価値観に根ざした理由でした。

この動画に対して、ネットでは
「親としての自覚が足りない!」
という怒りもあれば、

「いやいや、個人の自由でしょ」
という擁護もあって、

賛否両論が渦巻いているようです。

ただ、

ロシアの地方都市で
妻と2人の娘と暮らし、

一時期は、

「月5万円」

という生活をしながら
子育てをしていた僕からすると
この議論って、

そもそも前提の「視点」
ズレている気がしてなりません。

僕が一番気になったのは
ここです。

「周りがどうとか、平均がどうとか
そんな“ノイズ”に人生を支配されてないか?」

今日は、

  • ロシアでの極限コスト子育てのリアル
  • ドバイ移住をあきらめた時にした、めちゃくちゃ現実的な“電卓の計算”
  • そして、ある「孤独だった友人」の話

この3つを交えながら、

「2人目の壁」という
よく分からない
見えない怪物の正体について、

僕なりの答えを、
できるだけ飾らず
本音で書きたいと思います。

 

目次

「一人っ子は可哀想?」──外野の雑音をシャットアウトせよ

まずいきなり
結論に近い話からしますが、

周りの意見なんて
基本的には全部「ノイズ」です。

動画の中でも、

「一人っ子ハラスメント」

という言葉が出てきました。

「兄弟を作ってあげないなんて可哀想」
「子供は2人産んで一人前」

こんな“よくある台詞”が
サラッと口から出てくる社会。

正直に言いますが
こういうの、全部まとめて、

「いらんお世話」

です。

「一般的にはこうだから」
「普通はこうだから」

その“普通”に
自分の人生のハンドルを
渡してしまった瞬間から
人生は他人のものになります。

「一人っ子だから幸せじゃない」

と誰かが勝手に決めつけたり、

「兄弟がいれば絶対幸せ」

みたいな、根拠のない
ポジティブ神話を信じたり。

そんなテンプレ物語に
自分の家族の物語を
上書きする必要なんて
どこにもありません。

一番大事なことは
極めてシンプルで、

「あなた自身はどうしたいのか?」

そして、

「パートナーとどう話し合い
どこまで合意できたのか」

それだけだと思います。

夫婦の認識がズレたまま
“世間の常識”に押し流されて
なんとなく2人目を作ってしまうこと。

これほど危険で
不幸の種になりやすい選択はない
そう感じます。

ただ、

ここまで話したうえで
じゃあなぜ、僕自身は、

「子どもは絶対2人以上欲しい」

と強く願うようになったのか。

これは、“世間の常識”ではなく
僕の中にある「原体験」
から来ています。

 

エリート同僚が酒の席でこぼした「孤独」の正体

僕がまだ日本で
サラリーマンをしていた頃。

すごく仲の良い同期がいました。

彼は東京の港区出身。

親は会社経営者。

本人も仕事ができて
ルックスも良くて趣味も多い。

将来は親の会社を継ぐことだってできる。

周りから見れば、

「完全に勝ち組コース」

を進んでいるような男でした。

お金にも
キャリアにも
住む場所にも、

何一つ困っていないように見えた。

ある時、そんな彼と二人で
海外旅行に行きました。

旅先の、あの独特の開放感もあって
夜にお酒を飲みながら
普段は話さないような
深い話をしていたんです。

そんなとき、

いつもは強気で明るい彼が
グラスの中身を見つめながら
ふとポツリと漏らしました。

「森君とこうして旅行に来れて、本当に嬉しいよ。
……俺さ、一人っ子だから、ずっと寂しかったんだよね。
なんか、つまんなかったんだよ」

その一言を聞いた瞬間の
あの“空気の変わり方”
僕は今でも忘れられません。

あれだけ恵まれた環境で
なんでも持っているように見える彼が。

心のど真ん中には、

「兄弟がいない寂しさ」

という、誰にも見えない穴を抱えていた。

「一人っ子だから寂しい」

なんて言葉は
よくあるステレオタイプの一つ
だと思っていました。

でも、

“当事者本人の口から出た
本音としての言葉”

は、それまで僕が頭で理解していた
どんな理屈よりも、重かった。

いっぽう僕は
三人兄弟の真ん中で育ちました。

もちろん、

思春期には姉や弟と
喧嘩もしたこともあります。

お互い無視したり
口もきかなかった時期もあります。

それでも、大人になった今。

弟とは「親友」と呼べるくらい
仲が良くて一緒に、

インドの「ダージリン急行」
に乗って旅をしたり、

アメリカやヨーロッパを放浪したり、

日本の北アルプス(槍ヶ岳、剱岳)に
10回以上も一緒に登ったりしました。

もし兄弟がいなかったら…

僕の人生の「思い出アルバム」のページ数は
おそらく半分以下だったと思います。

あの同僚の、

「一人っ子で、ずっと寂しかった」

という一言と
自分自身の、

「兄弟との冒険の記憶」

この2つが
ものすごいコントラストを生んで
僕の脳内に焼き付きました。

「自分が家庭を持ったら
子どもには、この
“兄弟という財産”を残してあげたい」

そう心に誓ったのは
世間体のためじゃありません。

僕自身の「魂レベルの欲求」でした。

 

ドバイか、ロシアか──「月5万円生活」がくれた自由

僕が今回見たYoutube動画の中では、

「経済的に不安だから2人目は無理」

という声も多く紹介されていました。

これは現実的な問題だし
軽く扱うつもりは全くありません。

でも、

僕は自分の経験から
こんな疑問がどうしても浮かびます。

「本当に“お金の数字”だけが理由ですか?」

僕は29歳でサラリーマンを辞め
何のスキルもないまま起業しました。

当時の僕の頭の中は、

「このまま会社に依存していたら
いつか野垂れ死ぬ」

という、変な危機感だけで
いっぱいでした。

当然、

その後には地獄が待っていました。笑

最大1200万円の
借金もしたし
詐欺にも遭った。

自分のポンコツさに愕然とする日々。

そんな中で妻と出会い
長女ソフィアを授かったとき。

僕ら夫婦の前には
ざっくり言うと
3つの選択肢がありました。

1.日本に住む

ここは妻の「言葉の壁」
最大のネックでした。

日本語が話せない妻にとって
子どもの病院や、役所の手続きは
一人では対応できません。

そうなるとすべて僕が
メインで動くことになる。

結果、

僕の仕事に支障が出て
経済的にもジリ貧になる未来が
はっきりと見えました。

2.ドバイに住む

当時よく通っていて
ビジネスチャンスも感じていましたが
「生活コスト」が異常でした。

家賃だけで最低2000ドル(約30万円)。

子供の学校や幼稚園で一人1000ドル。

車がないと生活にならないので
維持費もかかる。

外食費も高い。

家族3人で「普通に暮らそう」と思ったら
月5000ドル(日本円で約70万)くらいは
あっさり吹き飛びます。

つまり、

「稼いでも稼いでも、右から左へ
お金が消えていくラットレース」

がほぼ確定していました。

3.ロシアに住む

妻の実家があり、義母のサポート付き。

物価が安くここなら全て解決できる。

・・

そこで僕らが選んだのが
ロシアでした。

妻の実家があり、

おばあちゃんから譲り受けた家に住めば
家賃はタダ。

(仮に家賃を払ったとしても
1万円程度と激安。)

光熱費を含めても、数千円レベル。

家には広い畑があって
毎日汗をかいて耕し、水をやれば
新鮮な無農薬の野菜が手に入る。

買うのは、牛乳・肉・卵・調味料くらい。

結果として、

家族3人で月5万円で生活が回りました。

日本やドバイで
「月5万で暮らせ」と言われたら
それはほぼ確実に「貧困生活」です。

でも、

ロシアの田舎での月5万生活は
決して惨めではありませんでした。

むしろ、逆です。

生活コストが圧倒的に低いおかげで
僕は「稼がなきゃいけない」という呪いから
少しずつ解放されていきました。

朝は子どもと一緒に起き
仕事の合間に一緒に昼寝をし
午後はベビーカーを押して近所を散歩し
夕方は畑仕事。

毎日、子供の表情の変化を
目の前で見続けることができた。

この、

「時間的な余裕」

と、

「精神的な余白」

こそが僕らが2人目
次女アマヤを迎える決断を
後押ししてくれたんです。

「お金があるから産める」
のではなく、

「お金がかからない環境を選び
心に余裕を作ったから産めた」

これが、僕の実感です。

もしあの時、

東京で見栄を張ってタワマンに住み
高い教育費と固定費に追われていたら…

おそらく、

2人目を作る決断なんて
怖くてできなかったと思います。

 

親の自己犠牲と、「買い物中毒」の行き着く先

ABEMAのYouTubeチャンネル
に出ていた、かんだまさんは、

「自分にお金をかけたい」
「ファッションやお酒を楽しみたい」

と語っていました。

これに対して、

「母親なのに何言ってるんだ」

という批判もあれば、

「それでこそ自分の人生でしょ!」

という擁護もある。

正直に言うと
僕は彼女の気持ちもよく分かります。

なぜなら、

僕自身がかつて「買い物中毒」
だったからです。

独身時代から
結婚直後くらいまでの僕は、

「何かを買う」という行為そのものに
強烈な快感を感じるタイプでした。

今ははっきり
理解できているのですが、

商品が欲しいというより
「購入ボタンを押す瞬間」
にハマっていた。

決済ボタンを
ポチッと押した瞬間
脳内にドーパミンが
バーッと出る感覚。

カードの明細を見る頃には
もう興味も冷めている。

そんなことの繰り返しでした。

でも、

親になるって良くも悪くも
たぶん、

「自己犠牲のゲーム」に
参加することでもあるんですよね。

子どもが生まれロシアで、

「質素だけど豊かな生活」

を始めてから僕のその物欲は
どうなったか?

完全に消えたわけではありません。

形を変えました。

自分の服ではなく、

「子どもの服」や「子どものおもちゃ」

を買うことでその欲望を
満たすようになった。

セールで子ども服が半額になっていると、

「うわ、これめっちゃお得!」

と興奮してポチる。

そして、ふと気づいたんです。

「あれ? 自分の服は買わなくていいの?」

って自問自答してみたら、

「うん、全然いらない」

って、即答でした。

結局、

自分のものが欲しかったわけじゃなくて、

ただ単に
「買い物がしたかっただけ」
だったんです。

子供の服を買って
子供の喜ぶ顔が見れれば
それで僕の「買い物欲」は
完全に満たされてしまう。

「我慢してる」なんて感覚は
これっぽっちもなくて、

「あぁ、自分はただの
買い物中毒だったんだな」

って、

妙にスッキリと理解できました。

僕がこの境地に達したのは
つい最近のことなんですがね。

でも、

妻に至っては昔から
もっと徹底しています。

ロシアの量り売りの古着屋で
1着100円、200円の服を選んで着る。

子どもたちも少し前までは
ほとんど親戚からの
お下がりのみでした。

僕が最近になって
「さすがに全部新品にしよう」
と提案して買い替えるまで、

妻は一切文句を言わず
むしろ「どう安く・楽しく暮らすか」
をゲームのように楽しんでいました。

ただ、

ここで勘違いしてほしくないのは
僕らはただの「ドケチ」
ではないってことです。

なんのために
そこまで徹底して
日常のコストを削るのか?

それは、

「ここぞという時の体験」に
全財産をぶっ込むためです。

親が自分の趣味やファッションに
お金を使いまくり
子どもは常に後回し。

あるいはその逆で、

子どものために全てを犠牲にして
親がボロボロの
廃人のようになっていく。

コレ、

どちらも極端で不健全です。

本当に大切なのは、

「親の楽しみ」と「子どもの経験」

この2つが重なるポイントに
お金と時間を集中的に
投下することだ。

そう僕は思っています。

僕ら夫婦にとって
その重なるポイントこそが、

「旅」

でした。

もちろん、

資金的に余裕があれば旅に出る。

なければ我慢する。

普段は古着を着て
外食もほとんどせず
爪に火を灯すように節約する。

その代わり
年に数回の家族旅行では
ドカンとお金を使う。

ちなみに、

ロシアを含むヨーロッパでは、

「子どもを親やお手伝いさんに預けて
夫婦だけで旅をする」

これが一般的だったりしますが
僕らは絶対に
子どもを連れて行きます。

子どもたちに
世界の広さを見せたい。

飛行機に乗って国境を越えることを、

僕が子どもの頃に
「電車で隣町に行く」
くらいの感覚で捉えてほしい。

「パパとママは普段めちゃくちゃケチだけど
旅になると急に太っ腹で楽しそう。」

子どもたちに
そう記憶してもらえたら
それで十分です。

そのとき
親の自己犠牲はもはや犠牲ではなく
一緒に作る「物語」になります。

 

ロシア人の「強さ」と、日本人の「平均値の呪い」

ここで少しロシアという
国の事情にも触れておきます。

ロシアは政治的にも
経済的にも不安定です。

戦争があり
通貨ルーブルは大きく変動し
「安定した未来」という意味では
日本よりも遥かに不透明です。

客観的に見れば
子育てにはかなり厳しい環境に
分類されるはずです。

確かに、

データを見ればロシアでも
晩婚化は進んでいますし
出生率自体は下がっています。

でも、

実際に住んで
周りを見渡してみると、

「4人目を産んでいる人」
けっこう普通にいるんです。

これはあくまで僕の周りだけの
体感の話かもしれませんが
日本よりも明らかに
子供が多い気がします。

もちろん、

これには子供を産んだ際に
「マタニティ・キャピタル」という
住宅ローンの返済などに使える、

100万円相当のクーポンが
もらえるといった
国の政策が大きく影響しているのは
間違いありません。

ただ、

それだけで説明がつくかというと
そうでもない気がするんです。

多くの発展途上国がそうであるように
ロシアも同じく、

「完璧な安定なんて
ハナから存在しない」

ということを肌感覚で知っています。

だからこそ、

「何とかなるさ」

という、

よくも悪くも強烈な楽観主義と
家族に対する深い執着心が生まれる。

ただ、これは決して
「ロシアという国が素晴らしい」
という話ではありません。

実際に住んでみると、

日本では考えられないような
どうしようもない理不尽さや
明日の生活さえ見通せない不安が
日常的に転がっています。

彼らの「何とかなる」という精神は、
裏を返せば、

「計画しても無駄になることが多いから
その場しのぎで生きるしかない」

という、

過酷な環境への適応の結果でも
あるんです。

ロシアと日本を比較した場合、

安全性や快適さで言えば
日本の方が圧倒的に上です。

でもその
「恵まれた環境」の上で比較すると、

日本人は、ものすごく真面目です。

「子どもを大学まで行かせるには、○○○○万円」
「老後資金は、最低2000万円必要」
「平均的な教育費は……」

こういう、

“根拠があるようで
実はかなりテキトーな平均値”

を元にして、

「勝手に作り出した『未来の借金』」

ばかりを計算してしまう。

そして、その幻の請求書に
自分で勝手にビビって
目の前の選択肢を
潰しているように見えます。

ロシア人たちの感覚は、
ざっくり言うとこうです。

「状況が整ったら産む」のではなく
「産みたいから産む。状況は後から何とかする」

どちらが正しい
間違っている。

という話ではありません。

でも、

「『平均値』の呪いで自分を縛る日本」

と、

「根拠のない楽観で前に進むロシア」

このギャップの中に
「2人目の壁」の正体の一部が
隠れている気がしてなりません。

 

結論:最後に頼るべきは「電卓」ではなく「心」

ちなみにこの文章を書いている
11月下旬、

長女ソフィアと妻が旅に出ていて
僕は次女のアマヤと2人で
留守番をしています。

アマヤは毎日、

「ソフィアは? ソフィアは?」

と聞いてきます。

よく姉妹で喧嘩もするけれど
やっぱり姉がいないと
退屈で寂しいようです。

その姿を見るたびに
僕は思います。

「ああ、やっぱり2人でよかったな」

と。

かつて僕の元同僚がこぼした
「寂しかった」という言葉は
嘘じゃなかったんだなと。

もし今「2人目の壁」の前で
立ち止まっている人がいるなら。

政府の支援が足りないとか
社会の風潮がどうとか
周りのママ友がどうとか。

そういう “外側の要因” を
一回ぜんぶ脇に置いて、

「電卓を叩くのを、一旦やめてみる」

ことを、提案したいです。

「大学まで行かせるといくら掛かる」
「老後資金がいくら足りない」

そんな、

「正解のない未来の計算」

ばかりしていても
不安が増えるだけです。

問うべきは、たった一つだけ。

「あなたの人生という物語に
もう一人、登場人物を増やしたいですか?」

ここに、自分なりの正直な答えを出す。

もし答えが「YES」なら
お金の問題は
工夫すればだいたい何とかなります。

住む場所を変えてもいい。

生活レベルを下げてもいい。

服なんて、古着で十分だし
タワマンじゃなくても
幸せな物語はいくらでも描けます。

逆に、

答えが「NO」なら
誰になんと言われようと
産まなくていい。

一番怖いのは
死ぬ間際に、

「世間の常識やお金の不安に負けて
自分の本当の気持ちを無視したこと」

を後悔することです。

僕はロシアという異国で
月5万円の生活を選び
世間のレールから盛大に外れることで、

「自分たち家族だけの幸せの形」

を見つけました。

あなたにも
あなたなりの答えがあっていい。

最後に一つだけ。

起業したいという相談を受けた時、
僕は逆に、

「あまりおすすめはしません」

と答えるようにしています。

それくらい現実は
甘くないからです。

子育ても、もしかしたら
似ているのかもしれません。

死ぬほど大変です。

特に子供が生まれてから半年間は
自分の時間なんて、ほぼ消えます。

本当、

すごく思うのは、

子育てだろうと、仕事だろうと
人生におけるあらゆる選択は、

突き詰めれば
「自分が心からどうしたいか」
という、一点に帰結します。

それに逆らうからこそ
生きるのが辛くなる。

「自分は本当はそうじゃないのに」
というズレが生じて
やりがいや幸福感が失われていく…

この「電卓」と「心」の対立は
「子どもを産むか産まないか」だけじゃなく、
仕事も、住む場所も、人間関係も、

人生のあらゆる選択に
静かにかかわっていると思います。

どれを選ぶのが「正解」かを
最後に決めてあげられるのは、

ほかの誰かではなく、あなた自身です。

それでは、また。

目次