森 翔吾です。
もし僕が今、
「どこでも好きな場所へ
今すぐ行っていい」
と聞かれたら
迷わず、こう答えます。
「イスラエル・エルサレム」
一般的に、
イスラエルや
そこに住むユダヤ人の
イメージと言えば、
・戦争や絶えない対立
・お金儲けが異常に上手い
など、
基本的には
ネガティブ、あるいはどこか、
「自分たちとは違う人種」
という偏った見方が
多いと感じます。
でも、
今回僕が話したいのは、
そんなステレオタイプな噂や
単なる観光旅行の話じゃない。
そこに住む人たち、
ごく普通の一般人の実生活を
自分の目で見て
肌で感じ取った、
「これからの自分たちのあり方」
についての話です。
何事もそうですが、
政治の世界のニュースと
現場に生きる一般人の現実は
全くの別物です。
ちなみに、
僕はこれまで
イスラエルという国に
合計3回訪れました。
そこで僕が目撃したのは、
単なる歴史的建造物の
美しさではありませんでした。
目の当たりにしたのは、
僕らとは全く違う
強烈な前提で生きる人たちの姿
そのものでした。
その光景は、
「安全」というぬるま湯の中で
自分の「柱」を見失っていた
僕にとって、
自分の固定概念を強制的に
書き換えざるを得ないほどの
凄まじい衝撃だったのです。
第1章:キリスト教の聖域に見た「不純物ゼロ」の衝撃
もちろん
エルサレムが、
「三代宗教の聖地」
であることは
知識としては知っていました。
でも、
旧市街に一歩
足を踏み入れた瞬間に悟りました。
そこにあるのは
言葉や知識を超えた、
「圧倒的な異世界」
の空気です。
幾重にも重なった歴史の地層が
逃げ場のない物理的な重圧となって
僕の全身に迫ってくるのを感じました。
例えば、
キリスト教の聖地とされる教会。
そこには、
世界中から巡礼者が集まってきます。
アメリカ、ヨーロッパ
南米、アフリカ……。
人種も、言語も
これまでの人生の背景も
すべてがバラバラな人々が、
ただ一つの、
「祈り」
のためにその場所に
ひしめき合っている。
それは、
日本人が連想するような、
「パワースポット巡り」
というカジュアルなもの
ではありませんでした。
彼らの姿を見ていると
僕ら日本人が日常で使っている、
「一生懸命」
という言葉が
いかに軽いものだったかを
思い知らされます。
ある人は、
キリストが横たえられたとされる
石の台に、一心不乱に
キスを捧げている。
その表情には周囲の視線など
一ミリも入っていません。
ある人は、
冷たい石の床に額を擦り付け
何かを願っている。
もしこの光景を
安全な場所から
スマホの画面越しに
見ていたら、
「自分とは違う世界の出来事だ」
「盲信的で、少し危うい」
と、冷めた分析で
切り捨てていたかもしれません。
信じるものを失い、
目に見える損得や効率だけで
世界を測るようになった
今の日本なら、
なおさらそう感じる人が
多いはずです。
でも、
実際にその空間に身を置いたとき
僕の胸を打ったのは、
これまでに感じたことのないような、
「究極の清々しさ」
でした。
なぜ彼らの姿はこれほどまでに
清々しいのか?
その答えはシンプルでした。
そこには、
「自分を立派に見せよう」
とか、
「誰かに認められたい」
とか
あるいは、
「損をしたくない」
といった
現代社会の至る所に蔓延している、
「ノイズ」
が一滴も存在しなかったからです。
象徴的な光景がありました。
教会の片隅で
古びた木の椅子に腰掛け、
壁に描かれた聖画を
ただ一点に見つめ続けている
一人の40歳くらいの女性がいました。
しかも、数時間もの間。
おそらく、
彼女の人生には
子供や家族を失ったなど
言葉にできないほどの絶望や、
心が粉々に砕け散るような
そんな出来事があったのでしょう。
表情は疲れ果て
途方に暮れているように見えました。
けれど、その瞳は
驚くほど澄み切っていました。
それは、まるで、
生まれたばかりの赤ちゃんが見せる
「純粋無垢」そのものの光。
嘘や打算、虚栄心が
入り込む余地のない、
剥き出しの魂の姿が
そこにありました。
その空間に満ちていたのは
僕らの日常でよくある出来事、
・寝る前に、大して見たくもない動画をダラダラと眺めて、気づけば深夜2時になっているような、あの虚無の時間。
・スーパーのレジが遅いとか、誰かの無神経な一言にいつまでも囚われて、一日中イライラし続けているような、ちっぽけな執着。
・あるいは、自分が何のために生きているのかも忘れ、ただ「なんとなく」で不要なものを買い込み、暇を潰すためだけに大切な命を削っている感覚。
こうした、
「自分の貴重な命(時間)を
外側のどうでもいいノイズに
明け渡してしまっている」
という、
あの不純物だらけの感情は
そこには一滴も
存在しませんでした。
そこにあったのは、
誰にどう見られるか
なんて次元を遥かに超えた、
自分という存在と
絶対的な真理だけが、
一対一で
剥き出しで向き合う時間。
彼らは、
周りのノイズを
一切遮断して自分の中に、
「揺るぎない一本の柱」
を持っている。
そう、確信しました。
ただ、勘違いしないでください。
僕は、
自分自身の特定の宗教観を
語りたいわけではありません。
言いたいことは、
そうやって自分の中の不純物を
徹底的に削ぎ落とし、
一点に意識を集中させている人々の
圧倒的なエネルギーにただただ
魂を揺さぶられたのです。
「あぁ、人間は
ここまで純粋になれるのか」
と。
その瞬間、
僕の脳内で何かが静かに
けれど決定的に弾けました。
これこそが
僕がイスラエルで体験した
最初のパラダイムシフトでした。
僕らは日々、
どれだけ「余計なゴミ」のような情報に
脳の貴重なリソースを
占拠されているでしょうか。
世間体、嫉妬、見栄、過去の執着……。
それらすべてを、
「祈り」
というフィルターで取り払った後に残る
「純度100%の自分」に立ち返ること。
エルサレムの教会の静寂の中で、
僕はその、
「精神的メンテナンス」
の絶対的な必要性を
細胞レベルで実感したのです。
第2章:ユダヤ人の「日常の祈り」と、15年前のiPhone
キリスト教の教会で
静かな祈りの凄さに触れた後、
一歩外に出るとそこにはまた別の
さらに強烈な、
「人間の熱気」
がありました。
実は、
僕はイスラエルを訪れる前から
ユダヤ教の人たちにはどこか
独特の、
「勢い」
を感じていました。
かつてビジネスで、
NYのユダヤ人の取引先と
関わったことがあったからです。
彼らは決して
悪い人ではないのですが、
とにかくビジネスに対する
勢いが凄まじい。
普通のサラリーマンなら、
そのエネルギーに
一瞬で食われてしまうような、
圧倒的な力強さと
「とっつきにくさ」
を感じていました。
他にもNYにある、
超正統派の人たちが住むエリアを
散策したこともあります。
摩天楼のすぐそばに、
黒い服を着た集団が
独自のコミュニティを作っている。
そこには異様なほどの結束感と、
自分たちの「血」や「ルーツ」を
何よりも大切にする、
排他的とも言えるほどの
純粋な空気が流れていました。
さらに
僕の妻の幼馴染の女性は、
ロシア系のユダヤ人と結婚して
イスラエルに住んでいます。
彼女はヘブライ語も完璧で、
イスラエル国籍(パスポート)を
持って仕事もしています。
それでも彼女曰く、
「完全にコミュニティに
入ることはできない」
と言います。
「あの人はユダヤ(の血)じゃない」
どれほど言葉ができても、
そこには決して超えられない
強烈な「自分たちの柱」がある。
エルサレム現地の話に戻ります。
そんな凄まじい
結束力を持った彼らですが、
夕方、
仕事が終わる時間になると
街の空気がガラッと変わります。
黒い服を着た
超正統派の人たちはもちろん、
普通の格好をした若者も
ベビーカーを押すお母さんも、
狭い旧市街の路地を
みんなが同じ方向へ
吸い込まれるように歩いていく。
目的地は、
「嘆きの壁」
です。
これは特別な
イベントの日じゃありません。
彼らにとっては僕らが、
仕事帰りに一杯飲んだり
ジムに行ったりすること
それ以上に当たり前の、
「習慣」
として祈りが生活に
溶け込んでいるんです。
そこで僕が目にしたのは、
「ユダヤ人=大富豪」
という世間のイメージとは
正反対の、泥臭い現実でした。
特に驚いたのは
彼らが持っているスマホです。
最新のiPhoneを持っている人のほうが
体感では少数派で、
画面が小さくて
物理ボタンがついているような、
「15年前のモデルか?」
と思うような古い機種を
ボロボロになるまで
当たり前に使い倒しているんです。
街を走るバスも同じです。
運転は、日本なら即クレームが入るくらい荒いし、
車内はいつも、ぐちゃぐちゃでカオスな状態。
でも、そこには日本を覆っているような、
あの息苦しい「世間体」なんてものは
一ミリもありませんでした。
例えば、超満員のバス。
入り口まで人が溢れているのに、
一人の母親が巨大なベビーカーを
強引に突っ込んできます。
日本なら、
「少しは遠慮しろよ」という
冷たい視線が飛ぶかもしれません。
でも、エルサレムでは違います。
ベビーカーがガンガン
足に当たっていても、
周りの人は
「そんなこと、どうでもいい」
とばかりに、
当たり前のように受け入れます。
母親の方も過剰に
ペコペコ謝ったりしません。
そこにあるのは、
周りの顔色をうかがって
「人からどう思われるか」を
気にするような生き方じゃありません。
自分の中に
「絶対に譲れないもの」が立っている
強烈に自立した姿でした。
彼らにとっての祈りは
難しい儀式というよりも、
毎日、自分の中を掃除してリセットする、
「頭の整理(メンテナンス)」
のように見えました。
「自分はどう生きるのか」
「何が一番大切なのか」
毎日その問いに戻って
自分の中に「柱」を立て直す。
だから、他人の持ち物や流行、
「人からどう見られるか」
なんていうどうでもいいことに
貴重なエネルギーを使わないんです。
この、
「自分を貫く強さ」
と、
「内側にあるブレない柱」
これこそが
僕らが効率やルールと引き換えに
どこかに置いてきてしまった、
「生きるための本当の強さ」
なのだと痛感しました。
第3章:7時間歩いても疲れない「脳のリミッター解除」
今回のエルサレム滞在は
約2週間でした。
この時、僕は自分でも
信じられないような、
「身体的な異変」
を体験しました。
毎日、朝から晩まで
旧市街の入り組んだ
石畳や聖地の丘を、
7時間から8時間
歩き回っていました。
本来なら、
夕方には足は棒のようになり
疲労困憊で、
「明日は一歩も動きたくない」
となるのが当たり前です。
しかし、
現実は全く逆でした。
どれほど歩いても
翌朝にはパッと目が覚め、
全身に力がみなぎり
すぐにでもまた歩き出したくなる。
2週間の滞在中、ほとんど
「疲れ」を感じなかったのです。
なぜか?
それは、
あの場所で「純粋な祈り」
を捧げる人々の、
圧倒的なフロー状態を
目の当たりにし続けたことで、
僕の脳内にあったある
「固定観念」
が壊れたからです。
「人間はこれくらい動けば疲れるものだ」
「7時間も歩いたら休息が必要だ」
という、
脳が勝手に作り上げた、
「疲労のブレーキ(リミッター)」
が、あの熱狂的な
エネルギーに触れることで
外れたんだと思います。
自分を律する、
「柱」
を持っている
人たちのエネルギーは
それ自体が伝染します。
彼らが神と向き合うように
僕も「自分」と向き合い続けた。
歩きながら、
思考を深め、
自分の中の不純物を
捨て去っていく。
そのプロセスに入ると
肉体的な負担は「苦痛」ではなく、
脳を活性化させる
「報酬」へと変わるのです。
この時、
僕が手に入れたのは、
「フロー状態に入れば
疲労という概念すら超越できる」
という、リアリストとしての
確信でした。
第4章:マイナス20度の雪道で、不純物を吐き出す「現代の修行」
今、僕はロシアの地方都市で、
あのエルサレムで感じたことを
自分なりに再現しています。
外の気温はマイナス10度
時にはマイナス20度。
吐く息は一瞬で白く凍り、
凍りついた雪道をシャリシャリと
踏みしめる音だけが響く中、
僕は毎日90分のウォーキングを
欠かしません。
これは、
単なる健康法でも
ダイエットでもありません。
僕にとってこれは、
自分の中にある余計な
不純物を出し切る、
「自分自身をリセット」
する大切な時間です。
歩きながら、
僕はスマートフォンに
接続したマイクに向かって
ひたすら声を出し続けます。
自分の声を拾い上げ
それを言葉として
目の前に並べていく。
そうすることで、
今の自分の状態を客観的に映し出す
「鏡」を相手にするような感覚で
自分自身と対話を重ねるんです。
・今日解決したいビジネスの悩み
・数年後のプラン
・あるいは誰にも言えないような不安や自分の弱さ
それらすべてを包み隠さず
極寒の空気の中に、
「独り言」
として吐き出していく。
そうやって自分の中を
「空っぽ」にしていくプロセスは
かつて僕がエルサレムで見た、
壁の前でひたすら
自分をさらけ出していた、
エルサレムの現地の人たちの姿と
本質は全く同じだと気づきました。
もちろん、
いつも「最強モード」で
いられるわけではありません。
寝不足で頭が回らない日もあれば
どうしても体が重くて
集中力が切れてしまう時もあります。
人間ですから、
体調や環境に左右されて
狂ってしまうことだってある。
でも、
そんな不完全な自分も含めて
すべてを言葉にして出し切る
「フロー状態」に入った時の僕は、
これ以上なくワクワクする
最高にエネルギーが
満たされる感覚になります。
大切なのは、
自分の中にあるものを
一滴も残さず
ごまかさずに、
「外へ吐き出す」
ことそのものです。
この、
「出力(アウトプット)」する
という行為自体に
とてつもない価値があるんです。
ひたすら喋り、
自分を出し切るプロセスに入ると
不思議なことが起こります。
「出すこと」
が、そのまま、
「エネルギーが溜まること」
に変わるんです。
自分の声を反射させて
自分の中に、
「柱」
を立て直していく。
エルサレムの壁の前で
彼らが自分を整えていたあの姿勢。
それを、
今の僕にとっての
最適な形に落とし込んだのが
この雪道での時間なのです。
最後に:あなたの中に、一本の「柱」を立てるために
イスラエルのエルサレム。
異様な光景や、
自分の生き方とは全く違う常識を
間近で目の当たりにして、
強く思ったことがあります。
それは、
「僕たちはいつの間にか、
『誰かの人生を生きるプロ』に
なってしまったのかもしれない」
ということ。
空気を読み、
周りに合わせ、
正解のわからない
世間体という霧の中で、
自分の足元すら見えなくなっている。
どれだけ便利な道具に囲まれても、
SNSで「いいね」を積み上げても、
心の奥にある乾きが
消えないのはなぜか。
それは、
自分を支えるたった一本の、
「心の柱」
を、どこかに置き忘れてきたから
ではないでしょうか?
勘違いしないでほしいのは、
僕は、あなたに特別な教えを
信じなさいと言うつもりは
全くありません。
ただ、
一日のうち数十分でいい。
「誰の目も気にしない
自分だけの時間」
を取り戻してほしいんです。
まずは、
自分の中にある
ドロドロした本音や、
言葉にできない違和感を、
そのまま外に吐き出すことから
始めてください。
誰に見せるわけでもない、
体裁を整える必要もない、
剥き出しの「生の言葉」を
ぶつける場所を持ってください。
ただスマートフォンの
録音ボタンを押して、
誰もいない場所で、
自分の内側にあるものを
すべて出し切ってみる。
そこに残るのが、
あなただけの、
「心の柱」
です。
自分の声を拾い上げ、
自分と深く対話する。
この泥臭い作業の先にしか、
本当の意味での、
「自立」
は無いだろうなと感じます。
人生は、
正解を探すゲームではなく、
自分という存在を
アップデートし続ける、
「終わりのない実験」
です。
雪道を歩き終えたあとに、
肺の奥まで入り込んでくる、
あの清々しく透明な冷気。
不要な不純物をすべて出し切り、
自分自身と真っ直ぐに
向き合った後に訪れる、
あの、
「究極の清々しさ」
を、あなたにも少しでも
味わってほしいと
心から願っています。
不純物ゼロの自分に立ち返ったとき、
あなたの世界は、
きっと今よりもずっと
鮮やかに見え始めるはずです。
それでは、また。


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