2026年1月10日
夜23時を回ったばかりの瞬間。
僕は声にならないほど
号泣していました。
10日間の一人で静かに過ごす
「小さな別居」は、
1月1日の夕方に
妻と娘たちを駅で見送ることから
始まっていました。
故郷へ帰る家族を抱きしめた時
僕は確信していました。
「この10日間は
自分と向き合うための時間だ」
と。
静まり返った家に戻ると、
さっきまでそこにあった熱量が
嘘のように消えていました。
脱ぎ捨てられた小さな靴下や
中途半端に片付けられたおもちゃ。
それらが放つ圧倒的な
「不在」が僕にこれからの
10日間を予感させていました。
しかし、
その時点では、
これほど深い場所へ
下りることになるとは
想像もしていませんでした。
そして、
迎えた最後の夜。
一人で思考を巡らせながら、
家族との未来。
新しい挑戦。
そうした前向きなことを
頭の中で整理していたのです。
深夜になっても全く
眠れないほどのフロー状態。
脳が高揚し
次々と思考が湧き出してくる。
「自分はもっと遠くへ行ける」
「家族を連れて
最高の景色を見に行くんだ」
そんな全能感に近いエネルギーが
僕の思考を加速させていました。
その流れの中で——
突然、
それは起きました。
未来に希望を見出した瞬間、
僕の意識は急速に
過去へ落ちていったのです。
まるで時間軸が逆転するような
そんな衝撃的なフラッシュバック。
深夜の静寂の中で
僕は気づき始めました。
自分の人生に、
30年以上も埋められていない
ぽっかりと空いた
穴があることに——
始まりは「森さんは精神病です」という、メッセージだった
この10日間
僕は何をしていたのか。
マイナス10度の寒さの中
真っ白な息を吐きながら、
手元のスマートフォンに
溢れ出す思考を
叩きつけるように録音する。
毎日2時間、
ただひたすら歩き
自分の中の言葉を吐き出し続ける。
一人での食事。
静寂な夜。
そして深夜、
ウォーキングで録音した
膨大な思考の断片を文字に起こし
一つずつ紐解いていく。
毎日アウトプットされた
何万文字にもなる
自分自身との対話記録を、
深く、深く分析していく作業。
「何か大きな気づきがあるはずだ」
そう思いながらも、
1月9日の深夜まで
何も起きませんでした。
でも、
1月10日
最終日の夜——
突然、すべてが起きたのです。
始まりは、
一通のメッセージでした。
数日前のこと。
何人もの読者から
メッセージが届く中で、
その一つが僕の目に止まりました。
「あなたは精神病です!
精神病院へ行ったほうがいい。
奥さんとも上手く
いっていないようですし。」
正直、
びっくりしました。
こんな決めつけをわざわざ
送ってくる人がいるのかと。
かつて、
YouTubeを
頻繁に更新していた頃、
誹謗中傷はよく受けたので
そういうことには慣れていました。
でも、
まさかブログで
ここまで踏み込んだことを
書いてくる人がいるとは。
ネットの世界には
あらゆる種類の人がいます。
礼儀正しい人もいれば無差別に
攻撃をぶつけてくる人もいる。
年を重ねるにつれて、
僕はそうした声に対する
免疫がついていました。
でも——
このメッセージには
腹が立ちました。
当然の反応だと思います。
「精神病だ」
と決めつけられ、
「精神病院に行け」
と言われ。
さらに、
「奥さんともうまくいっていない」
と、ありもしない事実を
勝手に断定される。
誰だって腹が立つ。
それは自然なことだと
自分でも思っていました。
だから、その時は
無視しようとしました。
「いちいち反応していられない」
という心持ちで。
でも——
その言葉は、
確実に僕の脳の奥深くに
沈み込んでいきました。
砂底に落ちる小石のように
ゆっくり、しかし確実に。
表面意識では、
「気にしていない」
と思っていても
無意識の層では
何かが動いていたのです。
それが、
数日後の深夜に
爆発することになります。
未来のことを
整理していた、
その瞬間に。
文字起こしした自分の思考を
読み返しながら、
次々と浮かぶ構想。
海外への移住計画。
メルマガの構想。
新たなビジネスの可能性。
そうしたポジティブな
話題の流れの中で、
唐突に——
かつての僕が
その声を上げ始めたのです。
恥ずかしい話ですが、
言います。
小学校に上がる前の自分。
おねしょが止まらなかった自分。
周囲から、
「精神的に何か問題がある」
と指摘されていた自分。
そして、
その自分に対して、
医師が、
「君は精神病だから
薬を飲んだ方がいい」
と提案していた、あの瞬間——
全てが、
一度に浮上してきました。
その場面を思い出した時
何よりも鮮烈だったのは
僕の母の姿でした。
母の怒り、そして守られた記憶
1月10日。
最終日の夜。
明日の午前中には
妻と娘たちが帰ってくる。
この10日間で最後の夜を
静かに、有意義に過ごそう。
そう思っていました。
少し早めにベッドに横になり
ぼんやりと考え事をする。
ポジティブな未来のことを
考えていました。
その時——
ふと、
あのメッセージが
頭をよぎりました。
「あなたは精神病です」
数日前に届いた
あの一通。
なぜ、
あんなに腹が立ったのか。
誹謗中傷なんて
今までいくらでも受けてきた。
でも、
あのメッセージには
異常なほど反応してしまった。
なぜだ?
考えていくうちに
一つ目の答えに辿り着きました。
このブログを
読んでくれている人たち。
恐らくその多くが、
内向的で、
夜型で、
世間の「普通」に馴染めなくて、
でも自分なりの生き方を
模索している人たち。
僕の仲間たち。
あのメッセージは、
そんな仲間に対して
「お前らは精神病だ」
と言っているようなものだった。
親友が馬鹿にされているような
そんな感覚。
だから腹が立ったんだ。
そう思いました。
でも——
それだけじゃない。
もっと深いところに
何かがある。
その瞬間、
小学1年生の頃の記憶が
ふっと浮かびました。
あの病院。
あの医師。
あの言葉。
「この子は精神病だから
薬を飲ませなさい」
——繋がった。
仲間が馬鹿にされて
腹が立ったのも、
もちろんある。
でも、
何よりも——
当時の少年自身からの
怒りのメッセージだったんだ。
「馬鹿にすんなよ」
あの医師に向けた。
理不尽なことを言ってきた
人たちに向けた。
心の奥底、
昔の記憶から
湧き上がってきた怒り。
それが、
あのメッセージをきっかけに
爆発したのです。
おねしょは幼稚園の頃から
ずっと続いていました。
小学1年生になっても
止まらなかった。
毎晩ではないけど、
夜、布団に入ると
濡らしてしまうことがある。
心配した母は、
小学1年生のある日
僕を病院へ連れて行きました。
そこで医師が口にした言葉を
僕は一生忘れないと思います。
「この子は精神病だから
薬を飲ませなさい」
小学1年生の子供に向かって、
その医師は無機質に
そう言い放ったのです。
その瞬間、
母の表情が一変しました。
「こんな小さな子供に
薬を飲ませるなんてあなた
頭がおかしいんじゃないですか」
普段は温厚で、
礼儀正しい母が見せた
別の顔でした。
母は僕の手を強く握り
その病院から連れ出しました。
二度と、
その病院の敷居を
またぐことはありませんでした。
いつからおねしょが止まったのかは
正直はっきりとは覚えていません。
ただ、
気づいたときには
静かに収まっていたのです。
もしあの時、
母が医師の提案を
受け入れていたら、
今の僕は
存在していなかったでしょう。
約35年の時を経て、
僕はようやく、
あの日自分を守り抜いてくれた
母の怒りに、
心からの感謝を
伝えることができたのです。
「年長の1年間」の記憶が、全くない
そこから、
僕はさらに
記憶をたどり始めました。
年中の頃。
引っ越したばかりの幼稚園で、
いじめられていた記憶が
はっきり残っています。
主犯格の子に
どんなふうにやられていたかも
具体的に思い出せる。
本当に嫌だった。
小学1年生の記憶もあります。
幼稚園と小学校は
同じ学区でした。
いじめの主犯格も、
その周りにいた子たちも
そのまま同じ小学校に
上がってきていた。
当然、
いじめは続きました。
今思えば、
物静かな性格と
坊主頭にメガネという見た目も、
からかわれやすい原因の一つ
だったのかもしれません。
田舎から来たよそ者。
あの教室の空気も
ちゃんと覚えている。
小学2年生の時、
足が速くなったきっかけで
状況は変わりました。
運動会でリレーの選手に選ばれ
全校の前で活躍することができた。
小学校で一番速かった。
その経験が、
同級生たちの見方を
変えてくれたのです。
いじめはなくなった。
よかった。
——あれ?
ふと、
気づきました。
年中の記憶はある。
小学1年生の記憶もある。
小学2年生の記憶もある。
でも——
その間にあるはずの、
「幼稚園年長の1年間」
だけが完全に抜け落ちている。
教室の様子も、
友達の顔も、
毎日何をしていたのかも、
いくら思い出そうとしても
何一つ浮かんでこない。
ぽっかりと空いた、
その「1年分の空白」だけが
真っ白なままそこに
存在しています。
なぜ——
年長の1年間だけが
ないんだ?
その瞬間、
僕は深い理解に達しました。
あの1年間は、
記憶を消さなければ
生きていけないほど、
それほどまでに
過酷だったんだ。
1年間という長い時間、
毎日毎日、
その過酷さを経験していた自分。
その自分が、
生き延びるために選んだのが
「記憶を消す」ことだった。
脳が自動的に
自分を守るために。
その気づきに達した瞬間——
涙が溢れ出しました。
止まらなかった。
声を上げて泣いた。
41歳の男が、
一人きりの部屋で
声を上げて泣いていました。
人生で一番、
申し訳ない気持ちで
いっぱいになりました。
そして、
人生で一番
悲しい瞬間だったと思います。
「ごめん。
ずっと、気づいてやれなくて
ごめん。
30年以上、
お前はずっとあの暗闘の中で
待っていたんだな。
誰かが迎えに来てくれるのを
ずっと待っていたんだな。」
夜23時。
涙で視界が滲む中、
僕は幼い自分に向かって
何度も何度も
語りかけていました。
あの1年間、
何が起きていたんだろう。
なぜそこまで過酷だったんだろう。
そしてなぜ、
30年以上もの間
記憶を消したままなんだろう——
その問い自体が、
幼い自分からのSOSだったことに、
その夜、
ようやく気づくことができたのです。
辛い記憶が消えない本当の理由
ずっと疑問でした。
なぜ、
辛い記憶ばかりが浮かぶのか。
幸せな思い出だって
たくさんあったはずなのに。
友達とスーパーファミコンをして
遊んだ日。
自転車で遠くまで
未知の世界に冒険した日。
裏の裏山を駆け回った日。
そうした楽しい自由な記憶も
あったはずなのに——
なぜか、
辛い場面ばかりが
何度も何度も浮かんでくる。
自分でも、
「いい加減、手放せよ」と
思っていました。
あの場面を思い出すたびに
心がざわめく。
それは不快で、邪魔で
もう必要のない感覚だと
理性の部分では理解していました。
だから、
何度も
「もう思い出さないようにしよう」と
試みました。
でも、
その夜ようやく
答えに辿り着きました。
楽しい記憶は
既に「成仏」しているんだ。
スーパーファミコン、
自転車での冒険、
裏山での遊び——
そうした思い出は、
その時を楽しく生きた
自分自身によって、
既に完成された形で
存在しています。
だから、
それらは
「思い出す必要がない」。
既に統合されている。
既に、自分の一部になっている。
だから浮かばない。
いや、
浮かぶ必要がないのです。
一方、
辛い記憶だけが、
何度も何度も
繰り返し浮かんでくる。
その理由は——
あの苦痛の中に
取り残されている自分が、
30年以上も、
「助けに来て」
と叫び続けているから。
空白の年長の1年間。
記憶を消してまで生き抜いた
その時の自分。
その自分は、
誰かに迎えに来てもらうまで
ずっと暗闘の中で
待ち続けているんだ。
いじめられた記憶が浮かぶのは、
その時の自分が、
「誰か、気づいてくれ。
誰か、助けてくれ」
と呼んでいるから。
だから、手放せない。
手放してはいけない。
それは「負の連鎖」ではなく、
「過去の自分からの最後の通信」
なんだ。
その理解に達した時
すべてが繋がりました。
そして、
もう一つ気づいたことがあります。
あの年長の1年間で刻まれた傷は
10年後に、
「別の形」
で顔を出しました。
医学的に因果関係を
証明できるわけではありません。
ただ、
自分の感覚としては、
「あの空白の1年で押し込めたものが
別ルートから噴き出した」
としか思えない
出来事がありました。
それが、吃音症です。
高校受験の模擬面接で
自分の名前すら
うまく言えなかった。
カナダに渡って
英語を学ぼうとした時も、
言葉が喉で詰まり
声を出すことが怖くなった。
「いい高校に行き、
いい大学に行き、
いい会社に入る」
という、
当時の「正しいルート」から
静かに降りていった背景には
いつもこの吃音の影がありました。
25歳の頃、
徹底的な発声練習を続けることで
吃音を克服しました。
振り返ってみると
あの時ようやく、
年長の自分から続いていた
「もう一つの傷口」を、
自分の手で縫い合わせ
始めていたのかもしれません。
iPhoneの壁紙と、オレンジ色のひまわり
号泣がようやく
収まり始めた頃。
ふと、
手元のスマートフォンが
淡く光りました。
iPhoneの壁紙は、
子供たちの思い出の写真が
自動で切り替わる設定に
なっています。
何気なく目を落としたその時
画面に映し出されていた光景に——
僕は、息を呑みました。
そこに映っていたのは
長女のソフィアでした。
場所は、
僕の故郷にある
ある神社へ続く坂道。
そして、彼女が着ていたのは、
薄い黄色の
幼稚園の制服でした。
「……年長だ。」
一瞬で理解しました。
写真の中の娘は
年中でも、小学1年生でもない。
僕の記憶から
すっぽりと抜け落ちていた、
「空白の1年」
と同じ、年長の年齢だったのです。
そして——
あの坂道だ。
今はきれいに整備された階段。
でも昔は、
誰かが鉄パイプや石を
持ち寄って作った
手作り感のあるボロボロの道だった。
その坂道が
写真の中に映っている。
30年前の記憶が
一気に蘇りました。
小学6年生の頃、
一番の親友だった
ベトナムにルーツを持つ、
グエン。
彼は、勉強も絵も上手で
どこか大人びていて。
僕にとって
憧れのような存在でした。
ある日、
グエンが言いました。
「森くん、ミスチルの新作が
もうすぐでるんだ!聴いてみなよ。
めちゃくちゃいいから」
なぜかその言葉が
強く心に響いて、
僕はすぐに
CDを予約しに行きました。
Mr.Children『BOLERO』。
発売日。
1997年3月5日。
必死に自転車を漕いであの坂道を下り
CDを取りに行ったのを
今でも鮮明に覚えています。
ジャケットには一面に広がる
鮮やかな「オレンジ色のひまわり」が
描かれていました。
あれから30年。
大人になった僕は
サラリーマンを経て起業し、
少しだけ自由になって
「自分探しの旅」として
ベトナムを訪れました。
いったいグエンはなぜ
あんなにも大人びて見えたのか。
そのルーツを
この目で確かめてみたかったからです。
そのベトナムで、
偶然、
一人のロシア人女性と出会った。
数年後、彼女と家族になり
娘が生まれた。
そして今、
その娘が
あの坂道の上で笑っている。
グエン→ベトナム→妻→娘。
すべての線が
この坂道から始まっていた。
実はこのエピソードは
僕が出版した本の後書きにも
書いています。
それくらい僕の人生の、
「原点」
と言える場所であり
出来事なのです。
辛い記憶もある故郷。
でも、
それだけじゃなかった。
グエンとの出会いも、
ベトナムへの興味も、
すべてはここから始まっていた。
今の僕の幸せに繋がる
「点と線」の始まりは、
この場所だったのです。
神様の飴と、父になった僕
そして、
iPhoneの画面に映る娘を見て
もう一つのエピソードを
思い出しました。
まさにこの写真を撮った日のこと。
幼稚園を終えたばかりのソフィアが
僕の手を引いて言いました。
「パパ、ちょっと来てよ」
連れていかれたのは
坂道の先にある神社の境内。
神棚には、
お供えの飴が置かれていました。
娘はそれを指差して
無邪気に言ったのです。
「これ、食べていいかなぁ?」
僕は、娘の目を見て
優しく答えました。
「これはダメなんだよ。
神様にお供えするための飴だから
勝手に食べちゃダメなんだ」
ふと、気づきました。
かつて、
大人の都合で「病気」と決めつけられ
傷ついていた幼い僕。
でも今の僕は、
幼い子供の無邪気な心を受け止め
優しく「道」を説くことができる
「父」になっていました。
理不尽に傷つける側ではなく
愛を持って導く側へ。
あの坂道で、
僕はいつの間にか
過去の自分をも救済していたのです。
僕の幼少期のことなんて
何も知らないはずの娘が、
「年長」として、
思い出の坂道で
どこか問いかけるような眼差しで
立っている一枚の写真。
それは、
「もう大丈夫だよ」
という過去の自分からの
色彩豊かなメッセージでした。
偶然であるはずがありません。
すべては、
僕が自分を迎えに行く
この瞬間のために
用意されていたのです。
さらに父親になって、
初めて気づいたことがあります。
それは、
「幼稚園や保育園の中で
何が起きているかなんて
本当に見えない」
ということ。
娘たちが通っている
ロシアの保育園も
日本で通っていた幼稚園も、
教室の中は
完全なブラックボックスです。
よっぽど注意して
子供の反応を見ていないと
全く気づかない。
これまで僕は
正直に言ってしまうと、
自分の親に対して
いじめられていたことを、
「気づいてくれたらよかったのに」
と思っていた部分がありました。
でも、
親のせいじゃなかった。
見えなかっただけだ。
今、長女のソフィアは
まさに年長です。
僕の記憶が消えた
あの「空白の1年」と
同じ年齢。
だからこそ、
僕は毎日のように
娘に聞いてしまう。
「今日は楽しかった?」
「誰と遊んだの?」
「嫌なことなかった?」
しつこいくらいに。
自分が経験した
あの辛さを、
絶対に同じ目に
遭わせるわけにはいかない。
もし娘が本当に
限界まで追い詰められて、
「もう絶対に行きたくない」
と叫ぶようなことがあったら——
明日からでも
環境を変えられる準備は
してあります。
なぜこれまで
わけもわからず
資産を作ろうとしてきたのか。
この夜、
ようやく謎が解けました。
あの年長の自分が
持てなかった選択肢。
「いつでもここから離れられる」
という逃げ道を、
娘たちのために
用意しておきたかった。
ずっとそう思っていました。
でも、違った。
本当は、
過去の自分のためだったんだ。
あの時、逃げ道がなかった自分。
その自分を、
今の僕が救おうとしていた。
お金に執着があまりない自分が、
心の奥底で
メラメラと燃やしていた
その炎の正体が、
ようやくわかりました。
過去の自分を、迎えに行く
深夜1時を過ぎた頃、
僕はようやく理解しました。
あのいじめられていた頃。
記憶を消してまで、耐え抜いた。
その時の、幼い僕。
彼はずっと、
僕が迎えに来るのを
待っていたんだ。
思い返せば、
このブログを再開したのは
2025年の10月でした。
11月から本格的に更新を始めて、
もう必死で
何かに取り憑かれたかのように
勢いに任せて書いていました。
自分の内面からフツフツと
湧き上がってくる
マグマのような熱量で。
その時、
ふと頭に浮かんだ言葉がありました。
「過去の自分を、迎えに行く」
正直、
その時は
よくわかっていなかったんです。
でも、
なぜか強烈に響いた。
だからそのまま
ブログのコンセプトにしました。
プロフィール画像の下にも
ずっと書いてある。
当時の僕は、
こう思っていました。
「幼稚園でいじめられたことも、
吃音症のせいで一般的な
幸せのコースから外れたことも、
書籍やブログに綴ったし
全部、もう清算した。」
「だから次はこれを
人に伝える番かもしれない。」
「それが自分の使命なんだ。」
そう信じていました。
でも、
蓋を開けてみたら
全然違いました。
そう、
あの言葉は、
自分に対しての暗示だったんです。
心の奥底からの叫びだった。
「過去の自分を迎えに来てよ」
という、
幼い僕からのメッセージだった。
もちろん、
同じように辛い思いをしている
読者の方々に届いているのは
間違いないと思います。
でも、
一番届けるべき相手は
他の誰でもない、
過去の自分だったんです。
30年以上の時間を経て、
今、僕は、
その迎えに行く準備ができました。
だから、彼に伝えます。
直接に。
声に出して。
「お前は病気なんかじゃない。」
「あの医者が『精神病だ』と言った時、
お母さんが守ってくれたのは、
お前がちゃんと『正常』だったからだ。」
「お前のその『繊細さ』
『敏感さ』『傷つきやすさ』——
それは弱さなんかじゃない。」
「それは、未来の仲間たちを
救うためのレーダーだったんだ。」
「41年かけて、ようやくわかった。」
「お前が感じていた痛み。
お前が受けていたいじめ。」
「それらは全部、
今ここで、立ち止まって
もう一度見つめ直すための
メッセージだったんだ。」
「大丈夫。」
「41歳になった俺が、
ようやく、お前を迎えに来たぞ。」
明日、家族が帰ってくる
この記事を書いている時刻は
深夜3時を過ぎていました。
明日の午前中、
雪に覆われたシベリア鉄道の駅に
家族を迎えに行きます。
1月1日の夕方、
妻と娘たちを故郷に見送ってから
10日間。
その10日間の意味が
今夜、完全に明らかになりました。
単なる、
「家族との離別」
ではなく。
「過去の自分との再会」
だったのです。
そして、
その再会のプロセスそのものが
このブログで僕が掲げてきた、
「過去の自分を迎えに行く」
というテーマの
リアルタイムでの実現だったのです。
構想と現実が
完全に重なった。
このブログを通じて
「伝えたい」
と思っていた物語が、
僕自身の体験として、
完結したのです。
あなたにも「空白」があるかもしれない
もしかしたら
あなたの中にも、
「空白」
があるかもしれません。
思い出せない時期。
できれば触れたくない
そんな記憶の時間帯。
特に理由もわからず、
何度も何度も浮かんでくる
辛い場面。
突然、
フラッシュバックのように蘇る
あの時の感覚。
それは、決して
「処理すべき障害」
ではありません。
それは——
あなたの過去のあなたからの
最後の通信かもしれません。
「助けに来て」
という、小さくて
でも絶望的に必死な声。
30年、40年、
あるいはもっと長い間。
暗闘の中で待ち続けている
かつてのあなた。
その声に応えることができるのは
今のあなただけです。
時間が経ったから
もう関係ないと思うのではなく。
あの時の苦痛が
今も何らかの形で、
あなたの中で呼び続けているのなら。
それは、
あなたが迎えに行くべき、
「大切な何か」
かもしれません。
あなたの中の
最も傷ついた部分を。
あなたの中の
最も孤独だった自分を。
あなたが、
大人になったあなたが
迎えに行ってください。
そして、
この記事を読んでいるあなたへ——
僕は、あなたを応援しています。
その暗闇の中にいるあなた自身を
迎えに行く勇気を。
それでは、また。

