記念日を捨てて、日常を「光」で満たす〜僕らの秘密の結婚式〜

森 翔吾です。

今日は、

正直に言います。

あえて嫌われる覚悟で、

「幸せの常識」

を、真っ向から
否定しようと思います。

結論から言います。

「結婚記念日」や「誕生日」

あるいは、

「クリスマス」や「バレンタイン」

そういう「特別な日」に
必死になって
しがみついているうちは、

あなたは一生、

「幸せになった気がする瞬間」

を追い続けるだけで、

本当の幸福には
辿り着けません。

もちろん、

記念日を祝うこと自体を
否定したいわけじゃない。

問題は、

特別な日の「劇薬」でドーピングしなければ、残りの364日を「幸せだ」と実感すらできない。そんな冷え切った日常を送っていること

そのものなんです。

あなたにとっての記念日は、

純粋な「お祝い」ですか?

それとも、

不満を隠すための
「確認テスト」ですか?

そんな「点」のイベントを
大切にしようとすればするほど、

あなたの日常という「線」は
静かに濁り、

気づかないうちに劣化していく。

これは、

僕がロシアという異国で、

家族とともに「自立」を
突き詰めた結果、

逃げようのない事実として
確信していることです。

 

目次

凍てつく街の「思考停止」

僕が住んでいるロシアには、

「国際女性デー(3月8日)」

という日があります。

この時期のロシアは、

まだマイナス10度を下回る日もある
厳しい寒さが残る季節です。

この日の街の光景は、異様です。

凍てつくような寒さの中。

街中の花屋には
女性に贈る花束を求めて、

男性たちが延々と行列を作ります。

ふだんの数倍に跳ね上がった
バカ高い花束を抱えて、

彼らは誇らしげに
あるいは義務感に追われて
家路を急ぐ。

「花を贈らない男は、愛がない」

そんな同調圧力が
この極寒の街を支配しているんです。

でも、

僕ら夫婦は
その行列を横目に見ながら
いつもこう話しています。

「……めんどくさいよね」

冷たい人間だと思いますか?
花が嫌いなんだと思いますか?

いいえ、違います。

僕の妻は、花が大好きです。

でも、彼女が喜ぶのは、

店で売られている
人工的に整えられた
高価な花束ではなく、

ロシアの豊かな大自然の中、

その辺の野原に咲いている花を
自分で積んできて
飾ることなんです。

長野県の蓼科や
北海道の山々にひっそりと
美しく咲く高山植物のように、

ロシアの涼しい気候の中で育った
ありのままの植物を
さっと花瓶に挿す。

僕らにとっては、

お金で買った「形式」よりも
その方がずっと豊かで、美しい。

それ以上に、

僕らが花束の行列に並ばない
もっと本質的な理由があります。

それは、

僕らのライフスタイルの優先順位が
「物理的な身軽さ」にあるからです。

僕らは、

急に思い立って明日から
数週間の旅に出るような生活です。

実際、

その日に決めて、
その日のうちに家族で
2週間ドバイへ飛んだ。

過去にはこんなこともありました。

そんな僕らの家に、

手入れや維持が必要な
「モノ」を置くことは、

自由への足枷(あしかせ)になります。

もし家の中に、

「この植木鉢があるか
旅行に行けない」

なんて理由が生まれるとしたら、

それは僕らにとって
本末転倒なんです。

ロシアには
圧倒的な自然があります。

花が見たければ
公園で森林浴をすればいい。

それよりも、

「いつでも身軽に飛び立てる自由」

の方が、僕ら夫婦にとっては
よっぽど価値があるんです。

「みんながやっているから」
「その日だから」

そんな理由で
自分の意思もなく列に並ぶのは、

単なる「思考停止」に過ぎない。
そう思いませんか?

 

その「常識」の裏側にある数式

そもそも、

あなたが大切にしている
「その日」は、

誰が決めたか知っていますか?

残酷な事実を言います。

それは、

「誰かの売上目標」
から逆算された日付です。

例えば、

バレンタイン

諸説ありますが、

1950年代にあるお菓子メーカーが
在庫を一掃するために、

「女性から男性へチョコを贈る」

という日本独自のルールを
仕掛けたと言われています。

海外に行けばわかりますが
男性から贈る国もあれば、
そんな習慣がない国もある。

イコール「正解」
なんて、どこにもないんです。

続いて、

「婚約指輪は給料の3ヶ月分」

という言葉。

これも、ダイヤモンドの独占企業
デビアス社が、

1970年代に、広告代理店を使って
日本人の脳に無理やり
インストールした、

ただのセールスコピー
だという説が有力です。

「恵方巻」にしてもそう。

もともとは大阪の局所的な風習だった
という説もありますが、

今のように日本中で
「これを食べるのが日本の伝統だ」
という顔をして並んでいるのは、

1998年に某コンビニチェーンが
全国展開のキャンペーンとして、

「恵方巻」と命名して仕掛けたから
に他なりません。

わずか20数年で、

ローカルな習慣を、

「国民的伝統」

という仮面にすり替えた。

この驚異的な「上書き」こそが
マーケティングの恐ろしさなんです。

あなたが、

「幸せだな」と感じている
イベントの正体。

それは実は、

高度に計算されたマーケティング戦略

なんです。

企業はあなたが、

「自分の頭で考える」

ことを嫌います。

なぜなら、

みんなが一斉に「この日に動く」
と決まっていれば、

物流も、宣伝も、売上予測も
圧倒的にコントロール
しやすくなるからです。

あなたの脳にある、

「認知の容易性(Cognitive Ease)」

という、

「深く考えることを嫌い
馴染みのあるものを信じる」

という性質を彼らは
徹底的にハックしているんです。

 

記念日は「信頼の借金」のボーナス払い

さらに踏み込んだ話をしましょう。

なぜ多くの人は、

あんなに必死になって
「記念日」にしがみつくのか。

それは、

日常の中で「信頼の借金」を
抱えているからです。

想像してみてください。

・慌ただしい日常。スマホを見ながら、パートナーの話を適当に聞き流す。
・家事や育児の負担を「仕事が忙しいから」と丸投げする。
・「忙しい」を免罪符にして、相手の小さな変化や不満に気づこうともしない。
・感謝を伝えるコストを惜しみ、会話の質をどんどん下げていく。

そうやって、

「今日は疲れているから
明日でいいや」

と後回しにしてきたツケ。

毎日、10円、100円と
積み上げた負債。

1年経てば、それは膨大な、

「信頼の借金」

になります。

その負債が爆発しそうになった時
あるいは罪悪感に
耐えきれなくなった時、

人は慌てて、

「高級レストラン」や「ブランド品」

を買い与えることで
その場を取り繕おうとします。

でも、

それは愛ではありません。

単なる、

「延滞利息の支払い」

です。

借金がなくなったわけではなく、

差し押さえを逃れるために
とりあえず利息だけを払って
問題を先送りにしているだけなんです。

これを心理学では、

「ピーク・エンドの法則(Peak-End Rule)」

と呼びます。

人は、どんなに全体の過程が
ダメ(マイナス)であっても、

最も盛り上がった瞬間(ピーク)
の印象だけで、

全体を「幸せだった」と
脳が誤認(エラー)してしまう。

企業や広告は、

この脳の欠陥を徹底的に研究し
利用しています。

彼らが売っているのは
プレゼントという「モノ」
ではありません。

「一日の爆発で、364日の不誠実を
チャラにできるという免罪符」

を、あなたに高値で
売りつけているんです。

「仕事が忙しくて
何もできなくてごめん」

その言葉を飲み込む代わりに
宝石やディナーを差し出す。

企業にとっては、

これほど効率の良い
ビジネスはありません。

でも、

僕が言いたいのは逆です。

「日常に信頼の貯金がある人間にとって
記念日は不要。」

ということです。

毎日、

少しずつ貯金をしている人間は
ボーナス払いで
無理をする必要がない。

日常の解像度を高めていれば、

一時の刺激(劇薬)に
頼る必要すらなくなるんです。

 

SNSという名の「公開裁判」からの脱却

もう一つ、

現代人を苦しめている
大きな罠があります。

それは、

SNSによる「幸せの展示」

です。

「記念日にこんな豪華なディナーに行きました」
「夫からこんな素敵なサプライズをもらいました」

タイムラインに並ぶ
キラキラした投稿。

それを見て焦り、

自分の幸せを
「他人の物差し」
で測ってしまう。

でも、

その投稿の裏側を見てください。

写真を撮るために
料理が冷めるまで角度を調整し、

「いいね」

の数を気にして
スマホを離せない二人。

それは、

パートナーのためではなく、

「世間」という名の観客のために
演じているだけではないですか?

実は僕ら夫婦は、

長い間、結婚式というものを
挙げてきませんでした。

理由はシンプルです。

数百万という大金を、

たった一日のイベントに投じるのは
経済的にも、合理的にも、

「無駄」

だと判断したからです。

誰かの財布が痛み
誰かを招待する煩わしさに
エネルギーを割くくらいなら、

そのお金で、

バックパッカーで旅したり
家族の未来のために
投資をした方がいい。

それが僕らの見解でした。

でも実は、

1〜2年ほど前のこと。

僕らは近所にある
誰も知らないような小さな教会で
二人だけで「式」を挙げました。

有名でもなければ
豪華な建物でもない。

子供たちが保育園に行っている間に
ひっそりと足を運びました。

親にも、兄弟にも、
誰にも言っていません。

別に隠しているわけじゃないけど
言う必要も無いと思ったから。

当然、

記念撮影もしなければ
SNSへの投稿もしていません。

なぜなら、

誰かに見せる必要なんて
1ミリもなかったからです。

それは他人に認められるためでも
幸せを自慢するためでもなく、

ただ二人の心の中で
「区切り」をつけ、

納得感という儀式を刻みたかっただけ。

二人の魂が「納得」していれば
それで完結しているんです。

もちろん
もしあなたが、

「昔からの憧れ」として
自分の意思で結婚式を挙げたいなら
それは素晴らしいことです。

でも、

盛大な式を挙げた直後に
離婚していく人たちや、

日常の愚痴をこぼしている人たちを
僕はたくさん見てきました。

それこそが本末転倒です。

何百万のお金を使って
一瞬の「点」を飾るよりも、

一生続く関係という「線」を
豊かにするためにそのリソースを使う。

他人にハンドルを握らせた幸せは、

「いいね」が切れた瞬間に
止まってしまいます。

あなたは、

誰のために幸せでいたいですか?

 

子供には「点」を、大人には「線」を。

もちろん、

僕らの子どもたち、

6歳のソフィアや
3歳のアマヤの誕生日は
盛大に祝いますよ。

でも、

それには明確な、

「論理的理由」

があります。

子供には、まだ経済力がありません。

自分で自分にプレゼントを買い、
行きたい場所へ行き、

自分を喜ばせる「自由な手段」を
まだ持っていないからです。

そして子供にとって
誕生日に盛大に祝われるという体験は、

「自分はこの世界から歓迎されている」

という、

生存のための絶対的な安心感を
手に入れるための儀式でもあります。

周囲と比較して、

「自分は愛されているか?」

を確認することで彼らは少しずつ
心の土台を作っていく。

親である僕たちは
あえて「点(イベント)」
という強烈な刺激で、

彼らの記憶に深く
温かな楔(くさび)を
打ち込んであげる必要があるんです。

それは、

彼らがいつか大人になり
一人で荒野を歩くときのための
「心の備蓄」のようなものです。

もし、この「備蓄」を
親がサボってしまったらどうなるか。

子供は世界に対して
ひねくれた見方をするように
なるかもしれません。

「どうせ自分なんて、祝う価値もない」

と自己肯定感の土台が
グラグラになり、

大人になってから、その
「埋まらなかった穴」を
埋めるために必死になる
地獄が待っています。

幼少期に「点」を
打ってもらえなかった大人は、

大人になっても「自分を見てくれ」という
過剰な承認欲求から
抜け出せなくなったり、

ブランド品や派手なイベントで
無理やり自分を「特別」に
見せようとする、

「イベント待ち」の
依存体質になりやすいんです。

だからこそ、

親は子供にたっぷりとした
「点」を打つ責任がある。

でも、

僕ら大人はもう、違うはずです。

子供の幸福が「点(イベント)」なら、
大人の幸福は「線(日常)」です。

十分に「点」を打たれて育った
自立した大人なら、

もう誰かに祝ってもらう必要はありません。

いつまでもカレンダーの赤文字に
一喜一憂しているうちは、

あなたは精神的にまだ、
「イベント待ち」のモード

に留まっていると言わざるを得ません。

それは、

幸せの主導権を
「カレンダー」や「社会の風潮」に
預けてしまっている状態です。

自立した大人なら
日付という外部の刺激に頼らず、

今日、この瞬間に流れている
何の変哲もない時間を
自分の知性で満たすことが
できるはずです。

誰かに祝ってもらうのを待つ
「受動的な幸福」から、

何気ない日常を祝祭に変える
「能動的な幸福」へ。

そのシフトこそが、

大人が手に入れるべき
本当の成熟なんです。

 

森家が贈る、究極のリスペクト

いつも、

僕のブログを読んでくれている方は
ご存知かもしれませんが、

僕ら夫婦は定期的にお互い
1週間から10日間程度の
「一人旅」を贈り合っています。

今回、妻に贈ったのは、

「10日間の、完全なる自由」

です。

来年の3月、

妻がジョージアへ行くための
航空券と宿を予約しました。

実はこれは
唐突な話ではありません。

ついこの前、

妻はアブハジアへ
行ってきたのですが、

そこで隣国である
ジョージアに興味を持ち、

「次はあっちを深く知りたい」

と、好奇心のバトンが
繋がった結果なんです。

人生という長い旅の中で、

自分の知りたいことを
自分の足で突き詰めていく。

そんな彼女の
「探求のストーリー」
中断させたくない、支えたい。

それが僕の本音です。

その間、僕はどうするか。

僕はすべての仕事を調整し、

ソフィアとアマヤの面倒を
10日間、完全に一人でみます。

……正直、

全然楽じゃなくて
めちゃくちゃ大変なのは
わかっています(笑)。

でも、

それこそが僕にできる
最大のリスペクトなんです。

デパートで買った
高級バッグを贈る手間よりも、

相手を「妻」や「母」
という役割から一旦解放し、

「一人の魂」に戻してあげる
「10日間」を引き受ける責任。

これこそが、

「自立した個」としての
本当の愛の証明

ではないでしょうか。

そして、もう一つ。

僕らが大切にしていることがあります。

それは、

「毎朝8時に、夫婦二人で保育園へ送る」

という何気ない時間です。

「パパだけ」でも「ママだけ」でもなく
あえて二人で行く。

それは、

育児を誰かに任せるのではなく、

「今、この瞬間、僕たちは
一緒に家族を運営している」

という感覚を共有するためです。

子供たちの小さな成長や
その日の表情を二人で共有し
足並みを揃えて一日のスタートを切る。

この泥臭いけれど
確かな日常の1コマの方が、

どんな記念日の豪華なディナーよりも
二人の「信頼残高」を積み上げる
大切な儀式になっています。

10日間の一人旅という
「非日常」を心から楽しめるのは、

毎朝の送迎のような、

揺るぎない「日常」の
土台があるからこそ。

僕らはこれからも、

世間の決めた日付ではなく
自分たちの納得感を指針にして。

こんな日々を
積み上げていくつもりです。

 

依存という名の地獄に落ちないために

ここで、

勘違いしないでほしいこと。

それは、

この「自由の贈り合い」は
一歩間違えると、

一方が搾取される「共依存」の地獄

に変わるということです。

「自分を犠牲にしてまで、相手に尽くす」

一見、美談のように聞こえますが
それは愛ではなく
関係性の崩壊の始まりです。

「自分はこれだけ我慢して
自由をあげたのに」

「相手はやってくれて
当たり前だと思っている」

そんなふうに、どちらかが、

「自己犠牲」という名の負債

を抱え始めたらそのシステムは
もう破綻しています。

「自由を与えても
相手へのリスペクトが返ってこない」

「一人の時間を与えても
ただ自堕落に依存を深めるだけ」

もし、

そんな関係になっているなら
今すぐそのシステムを
解消した方がいい。

ちなみに、

僕らの関係が成り立っているのは、

「お互いが一人の人間として
強烈に自立しているから」

に他なりません。

自立とは、

「一人でも、自分の足で立って
人生を楽しめること」

です。

「僕がいなくても
君は幸せに生きていける」

「君がいなくても
僕は僕の人生を全力で楽しめる」

そう確信しているからこそ、

あえて、

「一緒にいる時間」
を選ぶことが義務ではなく
純粋な「選択」になるんです。

「この人がいないと生きていけない」

という言葉は
ロマンチックに聞こえますが、

実は、自分の人生のハンドルを
相手に丸投げしている
恐ろしい状態です。

そんな依存状態で
自由を贈り合っても
待っているのは、

「生きる意味の喪失」

という地獄だけです。

そして、もう一つ。

「仲が良い=喧嘩をしない」

と思っているなら
それも大きな間違いです。

何の摩擦もない関係というのは、

一方が自分の意志を押し殺して
相手に飲み込まれている
「仮面」の状態かもしれません。

自立した個と個がぶつかれば
小さな摩擦(喧嘩)が
起きるのは当たり前です。

実際、

僕たちだって喧嘩しますよ。

日常の中では
小さな言い合いなんて
しょっちゅうです。

でも、

それが二人の関係に
「大きな傷」
になることはありません。

なぜなら、

その根底には
「お互いへの絶対的なリスペクト」
という揺るぎないベースが
あるからです。

その摩擦を恐れず、

「自分はこうしたい」
「それは受け入れられない」

と対話を積み上げるからこそ
二人の間の風通しが良くなるんです。

記念日でごまかしている夫婦は
この、

「自立の欠如」や「日常の不満」
から目を背けるために、

プレゼントという名の鎖で
お互いを繋ぎ止めている
だけではないですか?

自分を安売りせず、

相手を「一人の魂」として尊重し
必要なら戦うことも厭わない。

その緊張感があるからこそ
本当の意味での、

「自由な贈り合い」

が成立するんです。

 

最後に:日常を「本番」にして生きる

実は、

このブログを書いている僕自身も
かつては、

「日付」や「イベント」

という名の鎖に、自分の心を
預けていた時期がありました。

まだ未熟だった20代
東京でサラリーマンをしていた頃。

当時の彼女と付き合っていた時は
クリスマスには無理をして出かけ、

お互いの誕生日には
律儀にプレゼントを贈り合う。

それが、

「当たり前」
だと思っていましたし、

何の疑いも持たずに
広告に乗せられて
指輪を買いに行ったりもしました。

心のどこかでは、

「めんどくさいな」

「なんでこんなこと
しなきゃいけないんだ」

と思っていたけれど、

もし忘れたりサボったりすれば
後で何を言われるかわからない。

ぐちぐちと責められるのが怖い。

あの頃の僕は、

自分の心を満たすためではなく
波風を立てないための、

「自己犠牲」

としてイベントを
こなしていただけでした。

それはまさに、

社会の広告費で書き換えられた
不自由なOSで動いていた
自分そのものでした。

でも、

今の生活は驚くほど「楽」です。

それは、

僕ら夫婦の価値観が
根本から一致しているからです。

ちなみに、

ロシアにも
日本と同じように、

「テンプレート的な女性」

はたくさんいます。

国際女性デーに
高価な花束を贈らなければ、
本気で怒り出すような人たちです。

もし僕がそんな、

「テンプレ女性」

と結婚していたら。

その辺で摘んできた
野の花なんて贈ろうものなら、

間違いなく
修羅場になっていたでしょう(笑)。

でも、

僕の妻は違います。

彼女は、

僕らが住む地域の厳しい自然の中で
高山植物のように力強く、美しく咲く
名もなき野の花を、

心から愛でることができる人です。

明日ドバイへ飛ぶような
「身軽さ」を共有し、

お互いの探求心をリスペクトし合える。

そんなパートナーと出会えたからこそ
僕はもう、

形だけのイベントに
逃げる必要がなくなりました。

人生の本番は
ハレの日ではなく、

何でもない「今日」にあります。

どんな豪華な旅行も
贅沢なディナーも、

一瞬の刺激でしかありません。

そんな「劇薬」で
自分を誤魔化すのをやめて、

日常の「ベースライン」を上げることに
あなたの全知全能を注いでください。

364日の、

「波のない穏やかな日常」

を愛せない人間が、

たった一日の「嵐(イベント)」で
幸せになれるわけがないんです。

カレンダーの数字に躍らされるのは
今日で終わりにしましょう。

思考を止めず、
常識の裏側を見抜き、
自分の足で立って、

大切な人の「自由」を祝福する。

その先には、

企業のマーケティングにも
国家の管理にも支配されない、

圧倒的に澄み切った、

「本物の自由」

が待っています。

あなたが、

「今、この瞬間に自分の意志で動く」

と決めた。

それ以上に価値のある記念日なんて
この世に存在しないんですから。

それでは、また。

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