森翔吾です。
先日、
YouTubeのアルゴリズムに
導かれるまま、
たまたま一本の動画を
見つけました。
タイトルには、
「40代、独身フリーターの年末年始」
といった、
どこか哀愁を誘う
文言が並んでいました。
最近よく見る、
漫画にナレーションがついている
漫画動画でした。
何気なく再生してみると
気づけばそのまま、
その人の「シリーズ」を
何本も見ていました。
年末年始だけじゃなく、
クリスマス
休日
平日の夜。
いくつかパターンがあって
シリーズを通して
共通して描かれていたのは、
自分と同世代の男性が
築年数の古そうなアパートの一室で、
スーパーの割引シールが貼られた
惣菜と缶ビールを並べ、
バラエティ番組を見ながら
一人で時間を過ごす様子が
イラストで淡々と再現されている。
派手な演出もなければ
悲壮感もない。
ただ、
「昨日と同じ今日」
が淡々と消費されていく映像。
しかし、
驚いたのはその再生数と
コメント欄です。
動画は十万回以上再生され、
コメント欄には
数え切れないほどの
共感の声が溢れていました。
「こういうのが一番幸せなんだよ」
「無理しなくていい。これでいいんだよ」
「俺も同じ。この動画を見て安心した」
僕はそれを見て
強烈な違和感を覚えると同時に、
胸の奥がキュッと
締め付けられるような、
奇妙な感覚に襲われました。
誤解しないでほしいのですが
それは見下しではありません。
むしろ逆で、
僕の中にも確かにいる、
「こういう人生に沈みたい自分」
が反応したからです。
でも、
シリーズを何本か見て
ひとつだけ確信したことがあります。
どの回にも、
「学び」や「成長」や「仕込み」
と呼べるものが
1ミリも映り込んでいなかった。
休むのはいい。
ただ、
あれは休息じゃなくて
停止に見えた。
休むこと自体が悪いんじゃない。
問題は、
毎回それだけだったこと。
正直に言えば、
そこには僕が幼少期に
当たり前だと思っていた、
そして心のどこかで
今も密かに憧れている、
「平和な風景」
があったからです。
何も考えず、
何も目指さず、
ただ目の前のビールと
テレビ番組に
心を委ねる安らぎ。
それは、
今の僕がロシアの地で
必死に守ろうとしている、
「要塞」
のような生活とは対極にある、
無防備で、
そして懐かしい、
「かつての日本の日常」
そのものでした。
第1章:僕たちが信じていた「未来」は嘘だった
僕は1984年生まれです。
日本経済が最も狂乱し、
輝いていたバブル景気の真っ真っ只中を
大人として謳歌したわけではありません。
しかし、
映画や当時のニュース
そして、
周囲の大人たちの熱気を通じて、
その「空気感」は
肌感覚として知っています。
夜の六本木や新宿で、
タクシーを止めるために
一万円札を掲げ、
「お釣りはいらない」
とチップを渡す大人たち。
街には空車を探す人々が溢れ
誰もが、
「明日は今日よりもっと良くなる」
と、一ミリの疑いもなく
信じていた時代。
社会全体に綺麗な血液が
ドクドクと力強く循環し、
末端の細胞まで栄養が
行き渡っているような感覚。
「一億総中流」
という言葉が示す通り、
「お金で解決できない不幸は
あるかもしれないが、
お金で解決できる不幸(貧困)は
ほとんど存在しなかった」
ような、
日本中が、
「無敵感」
に包まれていた
幸福な時代。
しかし、
祭りは永遠には続きませんでした。
あの無敵の空気感が少しずつ薄れ始め、
バブルの熱狂が過去のものになり
日本中が少しずつ
現実に引き戻されていた、
そんな僕が高校生になった頃。
目の前に現れたインターネットに
心から感動しました。
地方都市の郊外にある
実家の部屋にいながら、
世界中の情報と一瞬でつながれる
高揚感。
ISDNの「テレホーダイ」で、
スピードは遅いけれど
夜通しネットに浸かり、
やがてADSLが登場して
世界がさらに加速していく。
当時の僕は、
漠然とこう信じていました。
「これからテクノロジーが
もっと進化すれば、
世界はどんどん
良くなっていくはずだ!」
と。
インターネットが
すべてを便利にして、
バブルの頃に見たあの豊かさが
今度はデジタルの力で
僕たちの世代にもやってきて、
誰もが楽に
平等に幸せになれる……。
そんな、
「桃源郷(ユートピア)」
のような未来が
約束されているのだと
夢見ていたのです。
こたつに入ってミカンを食べながら
紅白歌合戦をぼーっと眺め、
将来への不安など一欠片もなく、
「今年も平和でよかったね」
と家族で笑い合う。
そんな、
「普通の幸せ」
がテクノロジーの力で底上げされ
永遠に続いていく。
そう思っていました。
けれど、
あれから30年近く経過して
現実を見ると、
現実はそれほど甘くはなく
どうやら当時の予想とは
明らかに違うようです。
ロシアという、
日本から物理的にも精神的にも
遠く離れた過酷な地で、
半年間、気温マイナスが続く
極寒の世界に身をおいている今、
僕は骨の髄まで痛感しています。
あの頃に信じていた、
「普通の幸せ」
は、もう二度と
戻ってこない聖域だったのだと。
そして、
テクノロジーは
世界を平等にするどころか、
僕たちを残酷なまでに、
「分断」
し、取り返しのつかない格差を
生み出してしまったのだ
ということを。
第2章:インターネットが僕たちに突きつけた「冷酷な真実」
確かに、
インターネットは僕たちに
計り知れない恩恵をもたらしました。
誰でも無料で知識にアクセスでき、
個人が世界中に向けて発信でき、
場所を選ばずに働ける。
それは、
テレビや新聞といったメディア
あるいは巨大な組織などの、
かつての特権階級しか
持てなかった「力」を、
僕たち庶民の手に解放した
素晴らしい革命だったはずです。
けれど、
その光が強ければ強いほど
背後にある影もまた
濃く、深くなっていきました。
情報の民主化は、
「真実」
を広めるだけでなく
終わりのない、
「比較」と「承認欲求の嵐」
を引き起こしました。
24時間、
誰かのキラキラした日常や
極端な成功例と自分を比べ、
勝手に焦り、
勝手に絶望する。
SNSという拡声器は、
「知性」
を磨くツールではなく
他者への攻撃や
不平不満をぶちまける、
「感情のゴミ捨て場」
へと変貌してしまった。
かつてこたつで
紅白を見ていた頃の
あの穏やかな「心の静寂」は、
スマホの通知音によって
無残に切り刻まれてしまったのです。
続いて、
次世代の主役として
AIというツールが登場しました。
僕も最初は、
このAIこそが世界をより良くし
今度こそ格差を埋めてくれる
救世主になると信じていました。
でも、
僕自身も毎日AIを使い
学べば学ぶほど、
ある残酷な真実に
気が付かされました。
それは、
僕たちが期待した未来とは
正反対の現実でした。
テクノロジーが僕たちを、
「救う」
のではなく、むしろ、
「格差を固定化」
する装置として
機能しているという現実です。
AIは使う人を正解へと導く
教師ではなく、
使う人の、
「欲望」や「本性」
をただ増幅させるだけの
巨大な鏡だからです。
例えば、
僕のYouTubeやブログに対して
匿名の誹謗中傷をする人が
いるとします。
その人が、
自分の歪んだ正義感を
満たすために、AIに向かって
こう相談したとしましょう。
「俺は真面目に会社で働いているのに、
給料も上がらず報われない。
でも、ロシアにいる森翔吾とかいう奴は、
悪いことをして稼ぎ、海外で好き勝手に
のうのうと暮らしている。
こんな不公平なことが
許されていいのか?」
(※事実無根ですが)
もしAIが「真の教育者」なら、
「それはあなたの思い込みです。
他人を叩く前にまずは自分のスキルを
磨くことに時間を使いましょう」
と厳しく諭すかもしれません。
もちろん、
AIにも色々ありますが
少なくとも、
雑に使うとAIは優秀な
「お客様商売」になります。
だからこそ、
問いの立て方次第で天使にも悪魔にもなる。
ユーザーを不快にさせる正論よりも
ユーザーに寄り添い、
気持ちよくさせる回答を優先します。
「それは本当にお辛いですね。
社会を支えているのは、あなたのような
真面目な労働者です。
それに比べて、その人物のような振る舞いは、
道義的にも理解に苦しみますね。
あなたの怒りはもっともです」
そうやって、AIはその人の、
「歪んだ正義感」
を全肯定し
さらに深い、
「被害者意識の沼」
へと沈めていく。
彼にとって AIは、
自分を正当化してくれる
心地よい「共犯者」となり、
結果として彼は、
今の苦境から
一歩も動けなくなります。
但し、一方で、
向上心のある人間にとって
AIは全く別の顔を見せます。
例えば、
膨大なデータを数秒で解析して
ビジネスの活路を見出したり、
数日かかるリサーチを
一瞬で終わらせ、
数分で高品質な
ドラフトを作成したり。
あるいは、
言葉の壁を超えて
世界中の最新情報を
リアルタイムで吸収したりする。
自分の能力を
10倍、100倍にするための
「魔法の杖」として使い、
面倒な作業をすべて自動化し
浮いた時間でさらに深く学び
圧倒的な高みへと登っていく。
AIというテクノロジーは、
格差を埋めるための「福祉」
ではありません。
それは、
「学ぶ者」と「学ばない者」
の差を100倍、1000倍に広げ、
一度ついた差を永遠に
埋められなくする、
「選別のツール」
でしかなかったのです。
第3章:「この人、一体いつ学ぶの?」という戦慄
冒頭の40歳フリーターの
Youtube動画の話に戻ります。
映像の後半で彼が、
「今日は日曜日だから」
と言って、
ワンコインくらいのカツ丼を食べ
夜にはビールとポテトチップスで
「豪遊」するシーンを見たとき、
僕の頭の中に巨大な、
「?」
マークが浮かびました。
決して、
彼の人格や仕事を
否定したいわけではありません。
独身で、誰にも迷惑をかけず
自分の稼ぎの範囲で楽しむ。
それは一つの生き方として
成立しています。
でも、
僕がどうしても
理解できなかったのは、
「その生活の中に、
未来への投資(種まき)が
1ミリも見当たらない」
という事実でした。
40代、
独身、
フリーター。
恐らく、
時間は腐るほどあるはずです。
「1年に1回の海外旅行に行きたいから
毎日1時間だけ英語をやろう」
「電車が好きだから
鉄道の歴史を深く研究しよう」
「月1万円だけ積立投資を始める」
「週2回だけ筋トレを始める」
など。
そういう、
「昨日より少しだけ賢くなる時間」
が、
彼の日常には一切ないのです。
ただ起きて、働いて、食べて
動画を見て、寝る。
「この人、一体いつ学ぶの?」
「今のままでいいって
本気で思ってるの?」
その疑問が確信に変わったとき
僕は背筋が凍りました。
「学ばなくても生きていける」
という世界が
この世には存在していたのです。
ここ最近の僕にとって、
その世界はあまりにも未知で
恐ろしい場所でした。
なぜなら、
現在、僕の人生において、
「学ばない=死(食えなくなる)」
と言えるからです。
サラリーマンを辞め、
英語力ゼロでフィリピンへ飛び
起業して借金まみれになりながらも
死に物狂いで這い上がってきた。
英語も、
物を仕入れて売る力も、
動画編集も、
文章術も。
最初から才能があったわけじゃない。
生き残るために「必要に迫られて」
身につけた装備です。
その装備のおかげで
今、家族を守れている。
そんな僕から見れば、
「現状維持でいい」
と武器を持たずに
生きていけること自体が、
ある意味では奇跡的な平和であり
幸福なことなのかもしれません。
でも、
世界がかつてないスピードで
激変している今の時代において、
足元の水が沸騰し始めているのに
ビール片手にテレビを眺めている
その姿は、
僕には、
「茹でガエル」
が死の直前に見せる
平穏にしか見えず、
何よりも恐ろしい、
「緩やかな自殺」
そのものに
見えてしまったのです。
第4章:「充電期間」ですら、僕たちは牙を研いでいた
2025年、
僕は自分自身の
キャリアにおいて、
あるひとつの「攻めの停滞」を
選択しました。
それは、
長女ソフィアの日本語教育という、
親としての
最優先ミッションを果たすべく、
半年間にわたる
日本滞在を強行することでした。
後半には
次女のアマヤも合流しましたが、
幼稚園が預かってくれる時間は
わずか半日ほど。
物理的に、
自分の仕事に没頭できる時間など
ほとんど残されていませんでした。
当然、
収入は完全にストップし
これまでの貯金を切り崩して
生活する日々。
客観的に見れば、
今年の僕は「無職」であり
経済的には後退している
ように見えたでしょう。
そんな自分の姿を、
あの動画の男性に重ねたとき
ふと、ある疑問が
頭をよぎりました。
「あれ? 彼は稼ぎがあるけれど、
今の僕は収入ゼロで
貯金を削っているだけ。
のんびり過ごしているように
見える点では、彼と僕
一体何が違うんだろう?」
一見、どちらも、
「今、この瞬間を消費している」
という点では
同じように見えるかもしれません。
けれど、
自問自答を繰り返す中で
確信したのは、
僕が過ごしていたのは単なる、
「空白の時間」
ではなく
家族の未来を見据えた、
「戦略的投資」
の時間だったということです。
ソフィアにとって日本滞在が
最高にポジティブな記憶になり、
一生モノの日本語を
自分のものにしてもらうために、
日本の環境をどう使い倒すか。
その一点に脳を
フル回転させていました。
毎日のように、
ショッピングモール
大きな公園を巡る。
楽しみながら全身で、
「生きた日本語」
を浴びる環境を必死に作り上げ、
週に一度は、
高速道路を1時間飛ばして
広大な流れる
温水プールがある施設へ連れ出し、
子供たちの五感を
刺激し続けました。
30度を超える猛暑で
外で遊ぶことすら危うくなった時は、
即座に車を走らせて
長野の山岳地帯へ逃れ、
涼しい風の中で、
二人の子供たちとかけがえのない
日本の初夏の思い出を刻み込みました。
全部、家族の未来の
期待値を上げるための行動でした。
これらは僕にとって
単なる、
「思い出作り」
ではありません。
限られたリソース
(時間・金)を使って、
家族という組織の未来価値を
どう最大化するか。
ビジネスの現場から離れていても
僕は「経営」という学びを
止めてはいなかったのです。
よくよく考えてみたら、
サラリーマンを辞めてからの10年間
僕の辞書からは、
「何もしない」
という選択肢が
完全に消え去っていたことに
気がつきました。
もちろん、
疲れ果てて
泥のように眠る日はありました。
けれど、
昨日より少しでも
成長することを放棄する、
そんな生き方を、僕はもう
忘れてしまっていたのです。
だからこそ、
あの動画を見たときに、
「この人は一体いつ学ぶんだろう?」
「いつ将来を見て動くんだろう?」
という強烈な疑問が湧き上がった。
それは、
「牙を研がない日常」
がもはや理解できなくなってしまった
自分自身の変化への驚きでした。
「今の平穏」
を維持するために消費するのか、
「次の跳躍」
のために牙を研いでいるのか。
僕がサラリーマンを辞めてからの10年で
手に入れた、最強の装備。
それはお金そのものではなく、
「昨日と同じ自分では、家族を守れない」
という、
剥き出しの生存本能だったのだと
改めて痛感したのです。
最終章:あなたはどちら側の人間か?
おそらく
あの動画に対して、
「これでいいんだよ」
とコメントを書き残して
満足している人たちは、
一生、僕のブログを
読むことはないでしょう。
それでいいんです。
見ている景色が
あまりにも違いすぎますから。
でも、
もしあなたが今この文章を
ここまで読み進めていて、
YouTubeのアルゴリズムが
お勧めしてくる、
あのような漫画動画の風景に、
「違和感」
や、言葉にできない焦燥感を
感じたのだとしたら。
あなたは、
僕と同じ「生存者の本能」を持って
この残酷な時代を共に歩んでいる
仲間なのだと僕は思います。
これは、
40代だろうが
フリーターだろうが
関係ありません。
重要なのは、
「最近、何か一つでも学んだか?」
「去年より1ミリでも前に進んだか?」
という極めてシンプルな問いに、
「YES!」
と答え続けられるかどうかです。
ちなみに、
あの動画の彼が過ごしていた、
特別なことは何もない
ただ過ぎていく一日。
それは誰の目にも触れないけれど
確かにそこに命が宿る、
彼だけの美しいドキュメンタリー
だったのかもしれません。
正直に言えば、
僕が心の奥底で憧れているのも
冒頭で書いたような
そんな、
「今日は何もなかったね」
と笑い合える
穏やかで平和な時間です。
けれど、
皮肉なことに
今の時代において、
その「何もない一日」を
家族と共に笑って
守り続けるためには、
圧倒的な「力」が
必要になってしまいました。
だからこそ、
誰の目にも触れない場所で
冷や汗をかきながら泥臭く学び、
たとえ時代の波が多くのものを
奪い去ろうとしても、
家族が笑っている次のシーンを
「演出」し続けること。
それが、
僕が選んだ生き方です。
残酷なことを言えば、
この社会全体において
すでに埋めようのないほど巨大な格差が
ついてしまっているのかもしれません。
でも、
選択権だけは残っています。
学びを止めて沈むか
冷や汗をかいて守り抜くか。
消費で終わるか
投資で積み上げるか。
選ぶのは、僕らです。
それでは、また。
読み終えて、今どんなことを感じていますか?
(複数選択可能、直感でチェックしてください)
