こんにちは、森翔吾です。
今日は、
約13年前
僕がまだ忙しい東京で、
ごく普通のサラリーマンとして
過ごしていた頃の話から、
現在のロシアでの生活
そして、
「人生を自分で選ぶ」
ということについて
書いてみようと思います。
タイトルにもある通り
テーマは、
「戦略的な現実逃避」
です。
もし今、
あなたが当時の僕のように
日々の仕事に追われていたり、
将来への漠然とした
不安を抱えているなら。
今日の話は、
その「閉塞感」を打ち破るための
小さな、
でも、
強力なヒントになるはずです。
長くなりますが、
今の現状を変えたい
そう思っている方はぜひ
最後までお付き合いください。
カザンの極寒の川沿いと、スウェーデンの記憶
僕は今、
ロシアの地方都市
カザンという街に住んでいます。
毎朝の日課として、
気温がマイナス10度にもなる中を
1時間半ほどかけて歩き、
行きつけの
ウズベキスタン料理屋へ向かいます。
海は遥か遠く足元を流れるのは
黒く凍てついたヴォルガ川の支流です。
肌に当たる冷たい風は
刺すように痛い。
冷たく、乾燥した空気。
この感覚は、
僕が以前、
冬のスウェーデンの首都
ストックホルムで
有名な地下鉄のアートを
見るために旅をした時、
川沿いを歩いていた時の感覚と
よく似ています。
なぜ、
わざわざこんな極寒の場所で
1時間半も歩き続けるのか?
健康のため?
ダイエットのため?
いいえ、違います。
それは、
僕の思考の「軸」を取り戻すための
絶対に必要な時間だからです。
実は、この
「水辺をひたすら歩く」
という行為。
これは今に始まったことではなく
僕がまだ何者でもなかった、
13年前の
サラリーマン時代から続く
無意識の、
「思考の霧を晴らすための儀式」
でした。
世界中どこにいても、僕は無意識的に「水辺」を探していた
面白いことに、
日本を飛び出して
世界を旅するようになっても
僕のこの「癖」は変わりませんでした。
ニューヨークでは
イーストリバー沿いを延々と歩き、
バルセロナでは
地中海の港町を歩きました。
アムステルダムでは、
街中に張り巡らされた運河沿いを
ひたすら歩いていました。
(インドのガンジス川だけは別です。
あそこはカオスすぎて
思考をリセットするどころじゃ
なかったですが…笑)
なぜ、
僕はこんなにも
「水辺」に惹かれるのか?
それはきっと、
水辺が
「思考の防波堤」
を作ってくれるからだと思います。
片側が「水」である以上、
そちら側からは誰も来ない。
物理的に遮断されている。
その安心感が
僕をより深く
「自分の世界」
へと没入させてくれるんです。
13年前、サラリーマン時代の「満たされない不安」
では、
この「水辺での儀式」は
いつ始まったのか?
それは、
約13年前の東京での
サラリーマン時代に遡ります。
当時、僕は、
会社や人間関係に不満は
ほとんどありませんでした。
給料も悪くない。
上司も高圧的ではない。
むしろ人間関係は良好な
恵まれた環境でした。
でも、
僕の心の中には常に
言葉にできない、
「巨大な虚無感」と「焦り」
が渦巻いていました。
平和ボケという名の「重力」
不満がない。
これこそが僕にとって
最大の敵でした。
22歳からの数年間、
いわゆるブラック企業で働き
そこから抜け出して
ようやく手に入れた「安定」です。
最初は向上心を持って
仕事に取り組んでいました。
でも、
人間というのは弱い生き物です。
「頑張らなくても生きていける」
「今のままでも十分幸せだ」
そんなぬるま湯のような環境に
1年、2年と浸かっていると、
次第に牙が抜かれていくんです。
英語の勉強をしようとしても続かない。
資格を取ろうとしても身が入らない。
なぜなら、
「頑張る必要がないから」
です。
危機感がない場所では
人は努力できない。
その現実を突きつけられていました。
理想と現実の狭間で
でも、
頭のどこかでは
常に叫んでいる自分がいました。
「もっと上を目指したい」
「自分にはもっと可能性があるはずだ」
理想の自分は
もっと高く飛ぼうとしている。
でも、
現実の自分は、
心地よい現状維持という
「重力」に縛り付けられて
指一本動かせない。
「このまま、平和ボケしたまま
年を取っていくしかないのか?」
その、
見えない何かに
首を絞められるような閉塞感。
行動できない自分への
強烈なもどかしさと絶望。
それが、
当時の僕を覆っていた
「モヤモヤ」の正体でした。
この停滞を打破するために
僕は後に「会社を辞める」という
強制的な手段に出るのですが、
それまでの数年間、
僕をギリギリのところで支えていたのが
あの横浜での「儀式」だったんです。
横浜での儀式:「黄昏」がリセットした思考
そんな閉塞感の中で
僕が本能的に求めたのが、
「ここではない、どこか」
でした。
当時の僕は、
独身で残業もなく
給料もそこそこ良かったため
時間とお金には余裕がありました。
だからこそ、
仕事終わりの日は
平日でも週末でも。
多い時には週に何回も。
時間と小金が許す限り
僕は秋葉原から電車に飛び乗り
「横浜・みなとみらい」
へ向かいました。
なぜ、
近所の公園やカフェじゃ
ダメだったのか?
それは、
「生活感(日常のノイズ)」
を完全に遮断する必要があったからです。
近所のコンビニが見える場所では
どうしても、
「日常の延長」
になってしまう。
「明日のゴミ出し」とか
「洗濯物」とか、
そんな生活の匂いが思考の邪魔をする。
脳みそを強制的に切り替えるには
物理的な移動距離と
圧倒的な、
「非日常感」
が必要だったんです。
五感をハックする「脳の錯覚」
みなとみらい駅に降り立つと
そこはもう別世界です。
雑居ビルがひしめく秋葉原や
僕が住んでいた東京の都心とは違い、
そこには広い空と
広い道がありました。
海から吹いてくる風。
観覧車や高層ビルが作り出す
キラキラとした人工的な夜景。
外国人墓地をはじめとする
異国情緒あふれる建物。
それはまるで、
映画で見るような
海外のシーンのようでした。
飛行機に乗っていないのに
まるで海外に来たような錯覚。
僕はそこで、
ただひたすら歩きました。
耳にはイヤホンを装着し
洋楽や海外のクラブで
流れていそうな音楽を聴く。
薄暗い間接照明が
さらにムードを高め
高揚感を演出してくれる。
これを僕は
「五感のハッキング」
と呼んでいました。
目の前の景色と
耳から入る音。
それらを総動員して
自分の脳みそを「騙す」
んです。
そうやって
五感に入ってくる情報を
強制的に書き換えると
不思議なことが起きます。
さっきまで頭の中を占領していた、
「明日の仕事どうしよう」
「英語の勉強が全然進まなかった…」
といった、
会社員としてのノイズなどが
水に流されるように
消えていくんです。
そして、
空っぽになった頭の中に
「本来の自分(森翔吾)」
が顔を出します。
歩きながらの自問自答
ノートなどは持ちません。
ただひたすら歩きながら
頭の中で思考を巡らせるんです。
「もし明日、会社がなくなったらどうする?」
「自分は何が得意なんだ?」
「本当は、どんな生活がしたい?」
会社の中では、
「どうすれば評価されるか」
しか考えられません。
でも、
この場所でなら、
「どうすれば自由になれるか」
という戦略を練ることができる。
正直に言うと、
その時に「具体的な答え」は
あまり出ませんでした。
明確なビジネスプランが
浮かんだわけでもありません。
ただ、
この時にひたすら考えていたこと。
「ここではないどこか」
を求め続けた思考。
それが、
その後の29歳での退職という決断や
今のブログやYouTubeでの発信という
人生の原点になっていることは
間違いありません。
この時間は、
僕にとって「逃げ」
ではありませんでした。
現実をごまかしながらも
自分の人生を取り戻そうともがく、
「攻めるための作戦会議」
だったんです。
後から知った「科学的な正解」
実は最近になって
この、
「ただ歩く」
「ぼーっとする」
という行為が、
科学的にも歴史的にも非常に
理にかなっていることを知りました。
せっかくなので、
少しだけ「裏付け」の話をします。
1. 脳の「デフォルト・モード・ネットワーク」
脳科学の世界には、
「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」
という言葉があります。
これは、
人が意識的に何かに集中していない時
つまり「ぼーっとしている時」にだけ
活発になる脳の回路のことです。
驚くべきことに、
脳はこのDMNが働いている時に
過去の記憶を整理したり、
未来のシミュレーションをしたりして
「ひらめき」
を生み出しているそうなのです。
この機能こそが、
僕の思考を「ノイズ」から「戦略」へと
切り替えてくれていた
裏側の理由です。
2. 場所の力「アフォーダンス」
心理学には「アフォーダンス」
という考え方があります。
簡単に言うと、
「場所が人の行動や思考を規定する」
というものです。
家には「休む」「家事をする」
会社には「仕事をする」
というアフォーダンス(意味)が
埋め込まれています。
だから、
家で「人生の戦略」を練ろうとしても
無意識に脳が「休むモード」になり
うまくいかないのは当然なんです。
僕がみなとみらいを選んだのは、
既存の役割(会社員・生活者)から
切り離された場所に行くことで、
脳に「新しい思考」を許可するためでした。
3. 偉人たちの「歩行と思考」
歴史を振り返っても、
歩くことと思考を結びつけていた人は
数えきれないほどいます。
哲学者のカントやニーチェ
そしてスティーブ・ジョブズも、
重要な決断は必ず
「孤独な散歩」の中で行っていました。
つまり、
僕がサラリーマン時代にやっていた
「現実逃避の散歩」は、
脳科学的にも、歴史的にも
「創造性を高めるための正解」
だったわけです。
しかし、「科学的に正しいから」やるのではない
…と、
もっともらしい理論を
並べてみましたが。
ここからが、
今日一番言いたいことです。
僕が今、
ロシアの極寒の中で歩いているのは
「脳科学的に良いから」
でしょうか?
ニーチェがやっていたから
真似をしているんでしょうか?
答えは、NOです。
正直に言うと、
そんな権威付けや科学的根拠なんて
どうでもいいんです。
なぜなら、
「科学的に正しいから」
という理由で行動を決めるのは
結局のところ、
「他人の基準で生きている」
ことになってしまうからです。
それは、
会社の上司に言われたからやる
世間体が悪いからやめる、
という、
「雇われマインド」
と何も変わりません。
僕が歩く理由はただ一つ。
「僕が、そうしたいから」
これだけです。
歩いている時の自分が好きだから。
水辺にいる時の思考がクリアになる感覚が
自分にとって心地いいから。
その、
「納得感(自主性)」
だけが、僕を動かしています。
「ただの散歩」と「戦略的逃避」の違い
もし僕が、
「健康診断で歩けと言われたから」
という理由で
イヤイヤ横浜を歩いていたとしたら。
それは、
「戦略的現実逃避」ではなく
ただの「苦痛な運動」
になっていたでしょう。
そこからは、
独立へのアイデアも
人生を変える決断も、
全く生まれなかったはずです。
同じ「歩く」という行為でも
そこに、
「自主性(自分の意思)」
があるかどうかで
結果は180度変わります。
自分で選んで
自分で決めて
その場所に身を置く。
その覚悟があるからこそ
脳は「やらされるモード」から、
「自ら切り開くモード」へと
シフトチェンジするんです。
最後に:自分の「納得」を探しに行こう
もし今、
あなたが、
当時の僕と同じく日々の生活に
息苦しさを感じているなら。
そして、
頭では分かっているのに
「資格の勉強」や「副業」
など、
新たな一歩が踏み出せないのなら。
まずは、
自分の人生の「舵」を取り戻すことです。
そのためには、
自分の心が心から「やりたい」と叫ぶ
たった数時間の「現実逃避」が必要です。
具体的なアクションプラン
いきなり難しいことは必要ありません。
今週末、
以下の3つだけ試してみてください。
- 「水辺」や「広い場所」へ移動する
近所の公園ではなく、電車に乗って少し遠くへ。
日常の景色が目に入らない場所を選んでください。- スマホを機内モードにし、音楽を聴く
外部からの連絡を物理的に遮断します。
そして、好きな音楽で脳を「非日常」へ錯覚させます。- 答えを出そうとせず、ただ歩く
「今の不満」や「理想」をぼんやり思い浮かべながら、
足が疲れるまで、ひたすら歩き続けてください。
場所は横浜じゃなくてもいい。
海じゃなくてもいい。
科学的に効果があるかどうかなんて
調べなくていい。
重要なのは、
「あなたが、そこに行きたいと思うか」
そして、
「そこで一人になった時
自分の本音と向き合えるか」
それだけです。
誰かに言われた正解ではなく
自分だけの「納得」を見つける。
その小さな「現実逃避」こそが
あなたの人生を生き直すための
最初の一歩になり、
それが最終的に
逃げの現実逃避から、
「戦略的な現実逃避」
へと変わります。
今週末、
あなたの心が向かう場所へ
ふらっと出かけてみませんか?
それでは、また。


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