カリーニングラードで感じた、ソ連崩壊と現在の日本、そこにある「思考停止」の共通点

こんにちは、森翔吾です。

ロシアに住んで6年ちょっとになります。

こっちに来たばかりの頃から、

ずっと胸の奥に引っかかっていた
「違和感」があって。

それが先日、

「カリーニングラード」

という不思議な街を旅した時に
ようやく、

「形のある答え」になりました。

今日はその話を、

少し長くなりますが
聞いてください。

 

目次

ヨーロッパの真ん中なのに「ロシア地方都市」と同じ顔

カリーニングラードって、

地図で見るとかなり
不思議な場所にあります。

ポーランドとリトアニアに挟まれた
「飛び地」のロシア領土で、

地理的には完全に
ヨーロッパの真ん中。

本来なら、

ドイツっぽい街並みとか
ヨーロッパらしいカフェとか

観光地としての“雰囲気”が
もっとあっても良さそうですよね。

僕も勝手に、

そんなイメージを期待していました。

ところが実際に降り立ってみると、

「……あれ? 見慣れた
ロシアの地方都市だ」

これが正直な感想でした。

もちろん、

歴史的な背景は
理解しています。

第二次世界大戦で
ソ連が「戦勝国」となり、

敗戦したドイツから
正式に譲り受けた領土であること。

そして、

激しい空爆や地上戦で
街が一度「焼け野原」になり、

そこからソ連の手によって
ゼロから再建されたこと。

だから古い建物が
ほとんど残っていないのは
ある意味、当たり前なんです。

物理的に
壊れてしまったわけですから。

でも、

僕が感じた違和感は
「建物がないこと」
そのものじゃありませんでした。

再建された街の姿が
あまりにも「無個性」
だったからです。

中心部の一部だけ、

かろうじてドイツ風の建物が
残っているものの、

少し外れに歩いていけば
どこまでも続く
グレーのソ連式アパート。

道路沿いに並ぶマンションの顔も、

街角の小さな商店も、

子どもの遊び場も。

ロシアの地方都市、

「ニジニ・ノヴゴロド」
「キーロフ」
「イジェフスク」

など。

僕がここ数年で訪れてきた街の
ほぼコピー&ペースト状態でした。

それらの街の共通点って、

レストランに入っても
出てくる料理はほぼ同じ。

街のどこにでもある

「スタローバヤ(大衆食堂)」

に入れば
その意味がすぐに分かります。

・山盛りのマッシュポテト
・パサパサのそばの実(グレーチカ)
・茹でたマカロニ

とにかく炭水化物のオンパレード。

スープは、

赤色の「ボルシチ」か
チキンヌードルの「ラプシャ」。

メインは、

判を押したような形の
「カツレツ(ハンバーグ)」。

美味しいんですよ。
普通に美味しい。

でも、

「西の端のカリーニングラード」から
「東の端のウラジオストク」まで
全部メニューが同じなんです。

だから僕は、

飽き飽きしてしまって
どこの街に行っても
ロシア料理じゃなくて

「ウズベキスタン料理」

のお店を必死に探します。

中央アジアの料理なので
うどんのような「ラグマン」や
炊き込みご飯の「プロフ」など、

僕らアジア人の口に
めちゃくちゃ合うんです。

でも、

そういう「本場の食堂」には
ロシア人はほとんど来ません。

味は最高なのに。

理由はなんとなく分かります。
彼らの中にある、
出稼ぎ労働者に対する

「無意識の差別(見下し)」

です。

「あんな場所は俺たちが行く所じゃない」

そんな、

見えない階級意識のようなものが
本当に美味しいものを遠ざけている。

「美味しいなら食べればいい」
という合理性よりも、

「ロシア人はあそこには行かない」
という「見えないルール」
優先されている。

これもまた
ソ連的な何かなのかもしれません。

そもそもロシアって、

「この街といえばこれ!」

みたいな名物料理も
ほぼ見当たらない。

日本だったら、

北海道なら海鮮
名古屋なら味噌カツ
香川ならうどん…

みたいに、

どの地方にも
“その土地の味”
があるのが当たり前ですよね。

ロシアは、本当にそれがない。

「なんか、どこも同じなんだよな」

ここ数年ずっと感じていたモヤモヤが
カリーニングラードで
一気に爆発した感じでした。

このとき僕は
ようやく理解したんです。

ソ連が壊したのは
「建物」や「古い街並み」
だけじゃなくて、

もっと深いところ。

「人の個性=脳みそそのもの」

だったんだ
ということに。

 

フィリピンで感じた「富の独占モデル」と、ロシアは違った

ここから少し
他の国の話をします。

ロシアに住む前の話ですが、

僕はフィリピンで
英語の語学留学をした経験があります。

トータルで半年近くは
住んでいたと思います。

フィリピンって
典型的な「財閥国家」で

土地・銀行・通信・インフラ・政治

ほぼ全部、昔からの
大金持ちの一族が握っています。

上にいる家系はずっと金持ち。

下の層は、

どれだけ頑張っても
なかなか上がれない。

これはもう、構造的なハンデです。

起業しようにも

・銀行が相手にしてくれない
・流通の大部分が財閥支配
・政治的な“見えないルール”

そういう分厚いガラスの天井がある。

だからフィリピンでは

「挑戦したくても、物理的に無理」

というケースがかなり多い。

これはある意味
分かりやすい絶望です。

それで、

僕はロシアに来たばかりの頃

「ロシアも同じようなもんなんだろうな」

と正直思っていました。

街を眺めていても

「一部の金持ちだけが高級車に乗り
あとは古いマンションに住む人たちばかり」

表面だけ見れば、

フィリピンや他の新興国と
そんなに変わらないようにも
見えるからです。

でも、

6年住んでみて
僕の中で結論が変わりました。

「ロシアは、フィリピンとは
まったく別の地獄を経験した国だ」

と。

 

「登る」という発想が消された世界

ざっくり言うと、

フィリピンとロシアの
「絶望の質」は違います。

フィリピンの絶望は
「上が詰まっている絶望」

ロシアの絶望は
「登るという発想が消された絶望」

です。

フィリピンの場合
上には財閥がいる。

金もコネも政治力も
最初から持っている人たちが
独占している。

結果として
「挑戦しても通れない壁」
が存在している。

だから貧しい人たちの多くは
「やりたいけど無理」
という諦め方をします。

ある意味で
外側の壁が見えている状態です。

一方でロシアはどうか。

ソ連時代、私有財産は基本NG。

起業なんて
そもそも概念として存在しない。

金を持つ=怪しい人、危険人物。

目立つ=出る杭=打たれる。

「みんな同じでいなさい」
「一人だけ抜け出すことは許されない」

これが学校教育から
職場から、社会全体から

何十年もかけて、じわじわと
人々の頭に刷り込まれ続けた。

その結果、どうなったか。

ロシアでは今

「挑戦して失敗する人」
が少ないのではなく

「挑戦という発想そのもの」
がない人が圧倒的多数

なんです。

それを象徴するのが、

ロシアでよく見る
「異常な二極化」です。

僕らが住んでいるロシアの
地方都市のカザンを
例に出すと、

・普通の会社員:月8〜15万円
・僕らが関わってきた職人たち:月20〜30万円
・小さな会社の経営者:月100万円とか普通にいる

ざっくりですが
こんなイメージです。

ポイントは

「月100万円稼いでいる人たちが
やっていることは別に“魔法”じゃない」

という点です。

内装工事でも
ネットショップでも
お店を持っている人でも。

日本ならそこまで稼げないような
ビジネスでもロシアだと、

「やる人があまりにも少ない」

からこそほんの少し動いただけで
独占状態になりやすい。

「起業すればほぼ勝てるのに
誰も起業しない国」

これが今のロシアです。

そしてその背景にあるのが、

ソ連が何十年もかけて行った
「個性と決断力の破壊」
なんですよね。

 

地下鉄で出会った「ロボットみたいな人間」

ロシアに来たばかりの頃
今でもはっきり覚えている
出来事があります。

地下鉄に乗っていた時のこと
突然、警察に声をかけられました。

どうやらロシアには、

「見た目がロシア人と違う人には
職務質問をする」

という半ば義務のような
ルールがあるらしくて、

その日もまさにそれに
引っかかったわけです。

ただ、

その時に僕がショックを受けたのは
「職務質問されたこと」
じゃありません。

目の前の警官たちが
「まるでロボットみたい」
だったことです。

表情がほとんど動かない。

声のトーンも一定。

目の奥に、

「疑問」や「迷い」が一切ない。

「外国人だからチェックする」
「マニュアルだから」

それ以上のことを
自分の頭で考えていないのが
見ていて分かるんです。

一人の警察官じゃなくて
ほぼ全員の警察官がそうでした。

他の国だと、

警察官に職質された場合
相手が日本人だとわかると、

「あ、日本人ね、なら
悪いことしないだろうからOK
行っていいよ!」

日本語で、

「コンニチハ!!!」

みたいに
明らかに態度が変わることが多かった。

でも、

その時に見たロシアの警官は
「人間味」がほとんど見えない。

上からの命令を
そのまま実行するための

“人間の歯車”

そのものに見えたんです。

「この人は、何を考えて
生きてるんだろう?」

そんなことを思いながら
別室に連れていかれたことを
覚えています。

でもそれから6年が経過した
今のロシアでは、

日本人だと分かると
英語でしゃべってくれたり、

柔らかい対応をしてくれる警察が
ほとんどです。

理由は、

あのロボットみたいな警察官は今は
戦場へ送られたからだと思います。

だって、上層部に
「国のために頑張ってこい!」
って言われたら

間違いなく、

「ハイ、行ってまいります!」
って何も考えずに行きそうですもん。

兵士は思考停止している方が良いけど
実際の街にはそういう人はいらない。

政府もそう考えていたのかもしれません。

でもあの頃の
「完全に思考を切り離された人間」
を初めて見たときの衝撃は
今でも忘れられません。

今になって振り返ると

「これこそソ連が作り上げた
“理想の市民像”だったんだろうな」

と思います。

・自分で考えない
・上からの命令に疑問を持たない
・ルールに従うこと自体が「正義」

ロボットみたいな警官は
ソ連教育の“卒業生”
だったのかもしれません。

ただこの、

人格を半強制的に作る力
(セオリー)

は必ずしも
悪いことばかりじゃありません。

例えば、

ロシアのおばあちゃんたち。

彼女たちの中には
強烈なセオリーがあります。

「子供には優しくするのが
素晴らしいこと」

たとえその人が
本来は意地悪な性格だったとしても、

「子供を見たら優しくする」

というプログラムが
半強制的に、強力に入っている。

だからロシアでは
電車やバスに子供が乗ってくると

まるで反射神経のように
おばあちゃんたちが立ち上がり
席を譲ってくれます。

そこに迷いはありません。

「子供に優しくあれ」

という社会的なプログラミングが
徹底されているおかげで、

子育てに関しては
日本よりもしやすいなと
感じる瞬間があるのも事実です。

良くも悪くも、

社会の「型(セオリー)」が
個人の思考よりも優先される。

それがロシアという国の
面白さであり
恐ろしさでもあるんですよね。

 

「街は21世紀、中身は20世紀」のチグハグな世界

もう一つ。

ロシアに住んでいて
すごく不思議というか

ある種、

「不気味だな」

とさえ思う現象があります。

それは、

「人の思考は止まっているのに
街の景色だけが爆速で進化している」

というギャップです。

僕がロシアのカザンに来た当初は、

道路は穴だらけでボロボロ。

走っているのは
今にも壊れそうな古い車ばかり。

「ああ、これがロシアか」

という哀愁がありました。

それがここ5〜6年で
魔法にかかったみたいに
景色が変わったんです。

ここはちょっとロシアに住んでる
僕だからこそ見える変化かもしれません。

道路はきれいに舗装され、

街のあちこちに
おしゃれな公園ができ、

ボロボロの車は消え
ピカピカの新車が溢れかえっている。

これ、

僕の体感だけじゃありません。
データを見れば明らかです。

ソ連崩壊直前の1990年。

ロシアの自家用車は
人口1000人あたり
「約60台」でした。

車なんて一般人には
高嶺の花だった時代です。

それが2017年には
「300台」を超えています。

つまり、

たった30年足らずで
5倍以上に増えたわけです。

さらに変化は
「個人の持ち物」
だけじゃありません。

「Ozon(ロシア版Amazon)」

が爆発的に普及し
スマホ一つで当日〜数日以内に
何でも届く。

6年前は通販すらなかったので
この進化のスピードに
本当に驚くばかり。

そして今、

まさに現在進行形で進んでいるのが
「道の革命」です。

モスクワ〜カザン間を結ぶ
高速道路 M12「ヴォストーク」

これが開通したおかげで、

かつてガタガタ道を
丸一日以上かけて
死ぬ気で移動していたのが、

今はまるで滑走路のような道を
たった6時間

しかもこの高速道路
カザンで終わりじゃありません。

さらに東の、

エカテリンブルク、チュメニへと
現在も凄まじい勢いで
建設・延伸が進んでいます。

日本の地方都市よりも
ダイナミックでハイテクなインフラ整備が
国家プロジェクトとして
ゴリゴリに進められている。

でも、

ここで強烈な「違和感」に襲われます。

「箱(インフラ)は最新なのに
中身(人の思考)が追いついていない」

んです。

国が巨額の投資をして
ハードウェア(街)を最新にした。

でも、

ソ連時代に壊された
ソフトウェア(個人の脳)は
まだ古いまま。

最新のスマホを持ち
ピカピカの車に乗りながら、

頭の中ではまだ
「目立っちゃいけない」
「言われた通りに生きよう」
と思っている。

このチグハグさが、
今のロシアの
「いびつな豊かさ」の正体です。

ただ、

希望がないわけじゃありません。

ここ数年を見ていると

「ロシア人の思考も
冷凍庫から出した氷みたいに
ゆっくり溶け始めている」

そんな感覚があるんです。

その最大の理由は、

「生存の不安」が消えたからです。

2000年代の前半。

ロシアの貧困率は
まだ2〜3割もありました。

3人に1人は
「今日食べるもの」
に必死だった。

そんな状態で
「夢」とか「自己実現」なんて
考えられるわけがありません。

でも最近のデータでは
貧困率は1割前後まで下がっています。

「今日明日で餓死することはない」

と確信できた時
人間は初めて

「じゃあ、自分の人生どうしよう?」

と考え始めます。

実際に街を歩けば、

個人がおしゃれなカフェを開いたり
新しいサービスを始めたり。

「あ、この人たちは
自分の頭で考え始めたな」

という匂いのする店が
少しずつ増えてきました。

インフラと経済という「熱」が
凍りついた「思考」を
少しずつ溶かし始めている。

ただ、

そのスピードは
僕らが思うよりもはるかに遅い

だからこそ、

・思考が溶けて挑戦し
巨万の富を得る一部の人

・まだ思考が凍ったまま
便利な街で生きる大多数

という
「残酷な二極化」
進んでいるのが現状です。

街は豊かになりながら、
人の内側もゆっくり変わっている。

でも、

そのペースの遅さゆえに
『思考停止の副作用』も
まだ根深く残っている。

それが、

僕が見ているリアルなロシアです。

 

日本はどのポジションにいるのか?

さて、

ここまでロシアとフィリピンの
話をしてきましたが

じゃあ今の日本は
どこにいるのか?

日本には、

フィリピンのような
「財閥による支配」はありません。

ソ連のような
「恐怖による支配」もありません。

表面的には、

世界で一番自由で、
チャンスがある国の一つです。

でも、

久しぶりに日本に帰って
電車に乗ったり、

カフェに入ったりすると

「ある異様な光景」

に、背筋が寒くなることがあります。

たまたま用事でのった
朝の満員電車。

ふと顔を上げて周りを見ると、
7人がけのシートに座る全員が、

まるで申し合わせたように
首を直角に曲げて、

スマホの画面を凝視している。

指先だけが
機械的にシュッ、シュッ、と動く。

流れてくるのは、

・見知らぬ誰かのダンス
・切り抜かれたひろゆきの言葉
・倍速で消費される映画の結末

カフェでもそうです。

「よし、今日は作業を進めよう」

そう意気込んで
PCを開いたはずなのに、

「ちょっと休憩」

とYouTubeショートを開いたが最後。

気づけば1時間が溶けていて
手元には冷え切った
コーヒーだけが残っている。

「あぁ、また時間を無駄にしてしまった…」

そんな自己嫌悪に襲われた経験
みなさんにも一度や二度はあるはずです。

誰かに強制されたわけでもないのに
自分から進んで
「考えること」を放棄している。

これを踏まえて、

各国の状況をざっくり分けると
こんなイメージになります。

フィリピン:
上に「動かせない壁」がある
挑戦しても跳ね返される
外的要因の絶望

ロシア:
上に壁はそこまでない
でも「登ろうとする脳」が破壊されている
内的要因の絶望(歴史による思考破壊)

日本:
殴られてもいないし、壁もそこまで高くないのに
自分から「心地よい檻(アルゴリズム)」に入って、思考を手放し始めている

こんな感じで、

日本は今、
かなり微妙なポジションに
立っている気がします。

暴力で人をロボットにした国と
快楽で人をロボットにする社会。

ソ連がやったのは

・暴力
・恐怖
・監視

によって
「無理やり思考を止めさせること」
でした。

一方で、
現代の日本で起きているのは、

・YouTubeショート
・TikTok
・無限スクロールのタイムライン

といった
「便利で気持ちいいシステム」による

「快楽としての思考停止」

です。

ソ連は人を殴って
ロボットにした。

現代社会は
人を気持ちよくさせて
ロボットにしている。

アプローチは
真逆に見えますが、

「自分の頭で考えなくなる」
という結果は同じなんですよね。

実際、

ここ数年の日本を見ていると

・起業する人は減っている
・海外に留学したり、移住したりする人も少ない

その代わりに、

・「インデックス投資」
・「貯金」
・「コスパ」「タイパ」

こういった
“失敗しないための安全な正解”
だけがバズる。

そんな空気を
強く感じます。

もちろん、

インデックス投資が悪いとか
そういう話ではありません。

ただ、

「お金を守る技術」
ばかりが発達して、

「人生を変える決断」
をする人が極端に減っている。

「失敗したくない」
「正解だけを知りたい」

そうやって
アルゴリズムが差し出す答えに
飛びついている姿。

このバランスの悪さは
「思考を奪われた国(ロシア)」
を見ているからこそ、

余計に怖く感じるんですよね。

 

決断できる人は100%成功するのか?

なぜ、みんなそこまで
「正解」ばかり探すのか?

その根っこにあるのは
きっと「失敗への恐怖」です。

「損をしたくない」
「無駄なことはしたくない」

だから、

動く前に「確実な答え」
を求めてしまう。

そこで、

よく聞かれるのが
こんな質問です。

「決断できる人は最終的に
100%成功するんですか?」

これは、正直に言うと

「保証はない」

です。

例えば、

海外移住を決断した瞬間に
世界がコロナになったり
移住先の国で戦争が始まったり。

そんな、

どうしようもない出来事
が起こることもある。

ロシアに住んでいる僕が
一番よく分かっています。

ただ、

それでも僕が「決断する側」
にいることをやめたくないのは

「決断できる人だけが
地図を書き換え続けられる」

と知ってしまったからです。

最初に描いたゴールに
予定通り辿り着けることなんて
ほとんどありません。

・この国に住みたい
・この仕事で稼ぎたい
・このパートナーと生きていきたい

どれも予想外の出来事で
簡単に崩れます。

でも、その度に

「じゃあ次はどのルートで行こうか?」

と地図を書き換えられる人と

「もう無理だ」

とスマホの中に逃げ込む人。

この2つの生き方の差は
年を取れば取るほど

とんでもなく大きく開いていきます。

だから僕は

「決断できる人は100%成功する」

とは言いません。

代わりに、こう言いたいです。

決断できる人だけが
人生を“停止させずに”済む

と。

 

あなたは今、どちら側に立っていますか?

ここまで読んでくれたあなたに
1つだけ、少し意地悪な問いを
投げて終わろうと思います。

あなたは今

人生の方向を少しでもずらす
「決断」をしているでしょうか?

それとも

意見だけは持っているけれど
行動は、

YouTubeやSNSやアルゴリズムに
そっと委ねてしまっては
いないでしょうか?

ソ連は、人を殴って
ロボットにしました。

現代の世界は、人を
快楽漬けにしてロボットにします。

どちらも、

ある意味で「分かりやすい敵」です。

でも一番やっかいなのは

いつの間にか自分で
自分の思考を手放してしまうこと

なんじゃないかな
と僕は思っています。

地図通りに辿り着けなくてもいい。

でも、

地図を書き換え続ける側にだけは
一緒に残っていきましょう。

読み終えて、今どんなことを感じていますか?

(複数選択可能、直感でチェックしてください)

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